コラム 2024.07.24

【ラグリパWest】50年から先へ。生駒ジュニアラグビークラブ

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】50年から先へ。生駒ジュニアラグビークラブ
生駒ジュニアラグビークラブ(生駒JRC)の50周年記念大会における1年生タグラグビー試合。赤と白の段柄が生駒JRC、黄と黒が桜井

 ラグビーを子どもたちのよりよき育成のために使い、半世紀を迎える。

 生駒ジュニアラグビークラブである。短縮形は「生駒JRC」。英語のJunior Rugby Clubの3つの頭文字をとる。

 今では幼稚園児から中学生までにラグビーを教える、いわゆるこの「スクール」が誕生したのは1975年(昭和50)。奈良県の西部、生駒市である。県内には8つのスクールがあるが、最長の歴史を誇る。

 その50周年をひと足早く祝う記念大会が、この7月15日にあった。3連休「海の日」の最終日である。

 会場は県境の生駒山を越えた大阪の花園ラグビー場。メインの第一グラウンドである。大会の実施要項には書かれてある。
<あこがれの花園>
 本物に子どもたちを触れさせる。感性を磨く。ここでは日本代表のテストマッチ(国際試合)や高校の全国大会などが開催される。

 夏枯れのない緑の天然芝では、午前9時から午後2時30分ごろまで6時間超、幼稚園児から中学生までの歓声が響き渡った。

 この大会の別のテーマがある。
<子どもが主役>
 試合のスコアは取るが、勝ち負けは問わない。指導員からの指示も禁じる。子どもたちが委縮しないように全40試合は展開された。

 生駒JRCの4年生、中路大喜と太田尋翔(ひろと)は声をそろえる。
「楽しかったです」
中路は小1からこの競技を続けている。
「ボール回しや、タックルが好きです」
太田は幼稚園から楕円球に触れる。
「声を掛け合いトライをとるのがいいです」

 参加チームは生駒JRCを含め8。スクールはとりみ、桜井、四条畷、豊中。県内の小学生のタグチームとして都跡(みあと)、中学生の奈良北、さらには生駒JRCのOBを中心に編成されたドリームチームである。

 ドリームチームには眞野泰地(たいち)の姿もあった。2か月前に終わったリーグワンでBL東京の14季ぶりの優勝に貢献した。27歳のCTBである。

「昨日、奈良の実家に帰ってきました。明日、東京に戻ります。このために帰ってきました。僕にとっての原点ですから」

 笑みを示す細い目と口がさらににゅっと横に広がる。トップ選手になっても義理堅さは変わらない。眞野は最初から最後までグラウンドにいた。生駒JRCにいたのは小学校の6年間。中高は東海大仰星だった。高3時はFL主将として95回全国大会(2015年度)でチームを優勝に導く。決勝戦は桐蔭学園に37-31。眞野は東海大からBL東京に入った。

 この日、ドリームチームに参加したOBは同志社大の前監督、宮本啓希(ひろき)や近大の4年生PR、稲場巧。不参加だったのは前川泰慶(ひろのり)。S東京ベイのチームディレクターとして海外出張中だった。

 ドリームチームには保護者のセミシ・マシレワも加わった。長男のフレッチャーと次男のマイルズがこの生駒JRCにいる。マシレワは昨年のワールドカップで日本代表のFBとしてキャップ数を7に伸ばす。このグラウンドは所属する花園Lのホームでもある。

 花園Lは生駒JRCの創設に深く関わっている。チーム名「近鉄」の時代、WTBとして日本代表キャップ16を持つ坂田好弘がその設立を提唱した。坂田はその後、関西ラグビー協会の会長などを歴任する。

 生駒JRCのトップ、会長には田代和(たしろ・わ)がついたりした。田代はラグビー部の部長で、のちに近畿日本鉄道の社長になった。当時の近畿日本鉄道は今の持ち株会社、近鉄グループホールディングスである。

 スクールではなく、「クラブ」と名づけたのは、すべての人が楽しめるようにと、ヨーロッパ型のクラブを目指したためである。指導員が参加する「生駒クラブ」は子どもたちと並行して活動を続けている。

 生駒JRCのジャージーは白に細い赤の段柄が入る。副会長の米山博文は説明する。
「その細い赤がつながって、太くなったら日本代表のジャージーになります」
 米山はこの大会で司会進行につとめた。関西ラグビー協会の広報委員でもある。

 そのジャージーは子どもたちの大きな成長を願って作られた。左胸には生駒の市木、「樫」の葉が緑でプリントされている。チーム名は創設時、「少年」となっていたが、昨年、ジュニアに変更された。

 現在、生駒JRCの会長は三宅秀和である。66歳。現役時代はWTBだった。1975年度の高校日本代表で、同志社大では紺グレを初めて大学選手権決勝に押し上げた。16回大会(1979年度)は3-6で明大に敗れている。

「このような節目の時期に会長をさせてもらって、光栄なことです。その分、クラブの経営に対して、責任が出てきます。貢献できるように頑張ってゆきたいですね」

 三宅を頂点とするこの大会の参加者は保護者を含めて1500人ほど。子どもたちに渡される参加記念品は700が用意された。その記念品はエコバッグ。飾りものではなく、普段使いできるようにとの気遣いがある。

 この大会は熱中症対策も万全だった。グラウンドには医師4人が在駐。北側のスコアボード下にあり、ガラス張りでグラウンドが見える「ラグビーワールドカップ2019ルーム」は冷房を効かせ、避難所とした。

 この15日、花園ラグビー場のある東大阪の最高気温は31度。くもりで日が差さなかったことや万全の準備もあって、きつい熱中症は出なかった。ケガは軽い打撲程度。安全な大会として幕を閉じた。

 この大会に続き、記念式典は来年2月に予定されている。祝賀は続く。それはまた紡いできた半世紀の長さ、深さを示している。

2人の子どもを生駒JRCに通わせるセミシ・マシレワもOBで構成されるドリームチームでタグラグビーに参加した。マシレワは50周年記念大会の会場となった花園ラグビー場をホームにする花園Lに所属し、主にFBとしての日本代表キャップは7を持つ

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