タックルマン石塚武生の青春日記⑭
その夏、長野・菅平高原での日本代表候補合宿に声がかかった。26歳のタックルマンはコーチとして参加することになった。石塚さんはラグビーノートにこう、書いている。
<うれしい声がかかった。もちろん、この合宿で自分はジャパン復帰など考えてもいなかった。ただ、怪我から2年間、ラグビーから離れていた自分の元気な姿を何らかのかたちで見てもらいたかった。この2年間、いろいろな苦しい思いをし、ひとりで練習してきたことが決してまちがっていなかった事を自分自身で納得したかった>
合宿ではA、B、Cの3チームが編成され、激しい選考試合が繰り返された。4日目、チャンスがやってきた。タックルマンはBチームのフランカーとして出場した。思い切りタックルができるか、その1点にかけた。無事、試合が終わった。
<何とも言えない気持ちだった。試合から遠ざかっていた分、カンが鈍っていたかもしれないが、体力的には十分にプレーすることができ、2年間、つもりつもっていたものをはきだせた。チャンスにすべてを出し尽くした自分に悔いはない。ただ、それだけだ>
合宿最終日の朝。ホテルのラウンジでひとり、コーヒーを飲んでいると、日本代表監督の日比野弘さん(2021年11月14日に86歳で死去)がテーブルに寄ってきた。いつものおだやかな顔で何も言わず、コーヒーカップの横に白いレシートを置いて去っていった。
何だろう。日比野さんのコーヒー代を払っておけという意味か。まさか、そんなことは。レシートをめくると、裏にはこう、黒字で走り書きされていた。涙がこぼれ落ちた。
<日本代表復帰、おめでとう>
タックルマンの石塚さんは日本代表のフランカーとして、1978年9月23日のフランス代表戦(国立競技場・●16-55)に出場した。実に2年と3カ月ぶりの代表復帰だった。
その後、石塚さんは日本代表の不動の7番として活躍した。リコーの練習にも戻った。再び、水谷さんの回想だ。言葉に実感がこもる。
「あいつのがんばる気持ちはさすがだった。ひどい怪我をしたのに、不死鳥のごとく、またグラウンドに戻ってきた。おれたちもあいつのタックルで奮い立ったものだ。プレーにも、言葉にも、魂がこもっていたものさ」
1979(昭和54)年5月13日・花園ラグビー場 日本代表対イングランド代表(●19-21)
1979(昭和54)年5月20日・国立競技場 日本代表対イングランド代表(●18-38)
1979(昭和54)年9月24日・国立競技場 日本代表対ケンブリッジ大学(●19-28)
1980(昭和55)年3月30日・国立競技場 日本代表対NZ大学選抜(△25-25)
石塚さんは1980年の秋、日本代表のオランダ・フランス遠征に参加した。
日本代表は第1戦のオランダ代表戦(10月4日・ヒルフェルムス)では13-15で惜敗した。ほほえましいエピソードが残る。ノーサイドの笛が鳴った時、森重隆キャプテン(現・日本ラグビー協会会長)だけがガッツポーズをした。最後のチャンスだったフリーキックの時、味方にタッチの外に蹴り出すよう指示していた。スコアを勘違いしていたのだ。
その試合から41年が経った。師走某日の秩父宮ラグビー場そばのホテルのロビー。そのオランダ戦が日本代表デビュー戦だった伊藤隆さんが笑いをこらえながら思い出す。
「みんな、ずっこけてさ。あれは、重隆さんの判断ミスだった。得点板が会場になくて、スコアを勘違いしていたんだ。でも、だれも重隆さんを恨む人はいないよ。いい人だもの。試合直後、“重隆さん、勘弁してくださいよ”と言ったら、重隆さんは、“えっ、負けたの? 勝ってたんじゃないの”って」
遠征最終戦のフランス代表戦。10月19日のトゥールーズだった。石塚さんが7番、伊藤さんは6番の桜のジャージを着た。フランス代表はその年の五カ国対抗を制覇した強豪チームで、右プロップがあのロベール・パパランボルドだった。こんな逸話がある。ロック林敏之さんが猛タックルを浴びせ、パパランボルドが泣いたというのだ。
日本代表は健闘した。最後は3-23で敗れたものの、ラスト10分頃までは3-11と対抗していた。伊藤さんの述懐。
「たしか、そこで、俺たちはいい位置からのペナルティーゴールのチャンスを得たんだ。入れば、スコアが6-11となっていた。でも、外しちゃって…。負けたけど、いい勝負はした。石塚さんと6番、7番のペアを組んで、必死にタックルだった。タックル、タックル、ひたすらタックルだったね。不思議と試合中、会話はないんだよ。もう、“あ・うん”の呼吸。ラック、モール、どちらかが入ったら、もうひとりは入らず、次の展開にすぐ走った」
伊藤さんのトイメンは、かの金髪フランカーのジャン・ピエール・リーブだった。リーブは誰もが知る名言を残している。
『ラグビーは少年をいちはやく大人にし、大人にいつまでも少年の魂を抱かせる』
そうなのだ。石塚さんはラグビー少年の魂をいつまでも持っていたのだった。
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