【ラグリパWest】「コーリ」の新たな試み。同志社香里高校ラグビー部
今回のイベントは別の狙いもあった。
この学校を知ってもらい、中学受験の選択肢に加えてもらうことだ。
帰りにはOBたちが特製バッグに入った学校説明を手渡した。用意したのは選手の数と同じ。そのほとんどがはける。
試合後、希望者は校内の会議室に移る。清鶴が学校の状況や成り立ちを伝えた。
「高3の95パーセントが大学は同志社か同志社女子に進学します」
系列校の強みを訴える。同志社香里は2000年に男子校から共学に変わっている。
南野は卒業生、そして元保護者の立場で話をした。息子3人の次男・仁(じん)、三男・剛毅はここから同志社大に進んだ。ともにラグビー部に所属。4年生の仁は主にスタンドオフ、1年生の剛毅はスクラムハーフだ。
「この人工芝で試合をしてもらえて、学校を見てもらえて、よかったと思います」
南野はよろこぶ。
学校主催のオープンキャンパスは別日に設けられるが、日曜設定が多いため、ラグビーをする小学生の参加は難しかった。
同志社大学という進路の後ろ盾があるとはいえ、ラグビー部は少子化や受験の難易度、さらには他校の積極的な強化の影響で、近年は思うような結果を残せていない。
創部は1951年(昭和26)。今年69年目を迎えた。冬の花園には4回出場する。
初出場は南野が3年生の66回大会(1986年度)。8強に進出するも、13−36で天理に敗れた。監督は前任の西坂啓二だった。
清鶴はその2年前に社会科教員として赴任しており、西坂をコーチとして補佐する。
現役時代はスクラムハーフ。大分舞鶴から同志社大に進み、1982年度からの大学選手権3連覇(19〜21回大会)に貢献した。
チームの最上位は4強。74回大会で長崎北陽台に12−18で競り負けた。この1994年度の出場が最後になる。
聖地へは四半世紀遠ざかっている。
輩出した日本代表は5人。神戸製鋼だった平尾剛史(現名=剛、神戸親和女子大教授)が最後だ。キャップ11を持つフルバックは、1999年の第4回ワールドカップに出場した。
日の丸を背負った個人も20年間、出てきてはいない。
その閉塞感を吹き飛ばすためのカーニバルだった。
宮?洸(こう)は5年生。阿倍野ラグビースクールから参加した。
「人工芝のグラウンドで試合ができてよかったです。おとうさんをうらやましいと思いました」
父・浩彰もまたこの学校で競技にはまった。現在は大阪の中学ラグビーの名門・東生野の監督であり教員でもある。
宮?のようなOBの子弟はもちろん、できるだけたくさんのラグビー児童との縁をつなぎ、入学、そして入部に導きたい。
その先には、大学と同じジャージー「紺グレ」の再度の輝きがある。