5月4日のリーグワン ディビジョン1第16節三重ホンダヒート戦で後半17分から交代出場し、トップリーグ、リーグワンの通算試合出場数を歴代最多の178に更新した、コベルコ神戸スティーラーズのPR山下裕史。
38歳のベテランが歩んできた、これまでのラグビー人生の道のりを前編・後編に分けてお伝えする。
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リーグワン(トップリーグ含む)最多の178試合出場を誇るコベルコ神戸スティーラーズPR山下裕史。
今年の1月1日で38歳を迎えたベテランの朝は早い。
5時半に起床してプロテインを摂ると、朝6時には灘浜にあるクラブハウスへ。自宅からは昨年購入したロードバイクで行くことも多い。若手と一緒にウエイトやバイクなどの練習を済ませ、8時半には会社に向かう。1年を通し、そのスケジュールはほぼ変わらない。
「歯を磨くように、汗をかかないと気持ち悪い。早朝にトレーニングするようになった理由は、週末は子供のサッカーがあったり、夜は予定が入ることが多い。朝が一番」
2012年、エディー・ジョーンズHC率いる日本代表に招集されて以降、10年以上前から身についたルーティンだ。
愛称ヤンブー。正式には「二代目」。
入社間もない頃、OBである大西一平さんがコーチに来たとき命名された。同ポジションの先輩に山下正幸さんがおり、その呼び名を継いだため「二代目」を冠した。
冒頭の日本協会の出場数はリーグ戦のみ。トップ4トーナメントや日本選手権などの公式戦を合わせたチーム記録は212。これまでの伊藤剛臣さんの198を超えた。
チームからは100、150試合出場を達成した選手にはティファニーでオーダーした記念品が贈られる。初めて200の大台に乗った山下には、特注のチャンピオンリングが贈られた。
「入ったときは、ただただやるだけ。途中から競走のプレッシャーがあって、歳をとってきたら、チームを勝たせないといけなくなった。ぐるっと一周回って、この歳でまたラグビーが楽しくなってきた」
大阪出身。ラグビーを始めたのは都島工に入学してからだ。
「中2のときに父親を亡くしたので、就職するつもりで工業高校に入ったら」
身体の大きさを買われ、ラグビー部にスカウトされた。同校の瀧林賢次監督と京産大・大西健監督が天理大の先輩後輩であることから、大学は京産大へ。他を圧する猛練習で強豪への階段を上り始めていた時だった。
そこで徹底的に鍛えられて2008年に神戸製鋼に入社。以後、日本代表で、トップリーグとリーグワンの第1列でスクラムを支え続ける。
選手のプロ化が進む中、山下は社員選手である。2016年にはチーフスにも留学し、日本代表キャップも51と積み上げた。W杯にも出場している。
若手や移籍してきた選手は、はなからプロ選手と思い込んでいるから、社員と知るとみな驚く。
「プロになったらいいことも多いでしょうが、社員として生きていけないこともない。チーフスへの留学もそうですが、ラグビー活動を応援してくれるので、会社には感謝してます」
気持ちが揺らがなかったわけではない。2011年のW杯前後、プロに転向する仲間が続いた。夫人に思いを告げると「終わったらどうするの」と問い返され言葉に詰まる。「嫁さんを説得できんのやったら、社員でいったほうがええ」と心を決めた。
神戸に入って16シーズン。これまで数多くの選手を見てきた。
「プロになったら、時間もお金も手に入る。でもいつでも練習ができる、となったら、実はできないんですよ。朝起きて、夕方に練習しようと思っても、会社の面談が入ったり、友人との食事が入ったりでつぶれる。そうすると結局、1日練習出来なくなる」
10年以上続いている朝練習のルーティンは社員選手のプライドでもあった。200試合出場を達成できたのもあの時、思いとどまったからだ。
「自分がプロになっていたら、いいクルマに乗って後輩を連れまわしてお酒呑んで、試合に出られなくなって文句言ってると思います(笑)」
大学を卒業してすぐプロ選手としてプレーすることが珍しくない昨今の風潮に、懸念がないでもない。
「家業があったり教職を目指すのであれば別ですが、3年くらいは社会勉強として社員を経験してもいい。3年やったら、社会の仕組みも分かるし、自分がプロとして生きていけるかどうかの見極めもできる」
トップレベルで両立を続けてきたベテランの言葉には重みがある。