「シリル・バイユは世界NO.1の左プロップだ」とファビアン・ガルティエHCは言った。
昨年のシックスネーションズでアイルランドに勝利した後のことだった。
この試合でバイユはアイルランドの強力プロップのアンドリュー・ポーター(当時は右プロップだった)、続いてベンチから出てきたフレッシュなタイグ・ファーロングとスクラムを組み合い75分プレーしたのだ。
彼の強みはスクラムだけではない。
「スピード、機動性、そして器用なハンドリングのテクニックでBKのようにボールを繋いで生かすことができる」
代表でもトゥールーズでもチームメイトのHOジュリアン・マルシャンは言う。
2月26日のスコットランド戦では、SHアントワンヌ・デュポンが自陣22メートルライン付近からカウンターで防御を突破し、敵陣22メートルまで駆け上がったところで止められた。CTBガエル・フィクーがラックからボールを出そうとしたところにバイユが疾風のごとく現れて受け取り、1本目のトライになるアクションに繋げた。
2本目のトライも、タッチに押し出されそうなWTBダミアン・プノーのところに駆けつけボールを受け取り、自身も3人のスコットランドの選手にタッチに押し出されそうになりながら内側に来ていたWTBヨラム・モエファナに繋いでトライとなった。
「シリル(バイユ)は素早く動けて、またゲームの流れを読むことができる。我々の攻撃に重要な選手」とガルティエHCは全幅の信頼を寄せ、バイユが出場可能だった17試合中16試合で先発出場させている。
そんなバイユはラグビー一家で育った。祖父も父も叔父もいとこもラグビーをしていた。
でも彼が最初にしたスポーツはサッカーだった。母にラグビーは小さな子供には危険だと言われたのだ。
「サッカースクールで、最初はミッドフィルダー、そしてディフェンダー、最後はゴールキーパーをした。どれをやっても下手だからある日コーチから『ラグビーのようにコンタクトのあるスポーツの方が向いているのではないか』と言われ、11歳でラグビーを始めた」
「ラグビーでも最初はBKだった。そしてNO8になり、とうとうプロップになった。お陰で自分は今ここにいるのだから、プロップになるように僕を説得してくれたコーチに感謝する」と言う。
その5年後にトゥールーズのジュニアチームに入団することになり親元を離れた。15歳だった。
3年後にTOP14デビューを果たすが苦い思いもしてきた。先発したもののスクラムでペナルティを3度取られ29分で交代させられ情けない思いをした。
また当時トゥーロンでプレーしていた元オールブラックスのカール・ハイマンと対戦、2度スクラムを組み、その後2週間痛みが残った。
「トップレベルとはどういうものなのか思い知らされた」
その頃トゥールーズでFWコーチをしていたウィリアム・セルヴァット(現代表スクラムコーチ)から、スクラム、ラック、FWの仕事について教え込まれた。
「スクラムのために首と体幹を鍛えた。特に早朝のプランクがキツかった」と笑いながら話す。「プロップの価値が問われるのはスクラム。いくらオフロードパスを成功させてもスクラムで押されたら意味がない」と言う。
大切な試合の前夜はなかなか眠れない。「悪い試合をしたらどうしよう」と不安になる。
試合当日はルーティーンがある。
「会場入りするまで音楽を聴き、ロッカールームに入る時に止める。ロッカールームの音を聞くのが好きだから。そしてトト(デュポン)とジュジュ(マルシャン)と一緒にグラウンドをひと回りする。これで試合に入る準備が完了する」
試合後は「チームに十分貢献できただろうか」と振り返る。
2016年11月に代表デビューするが約半年後に膝蓋腱断裂。8か月かけて復帰したが半年ほどで今度はハムストリングを手術することになる。
その間、代表には他の選手が定着し2019年ワールドカップはもう無理かと諦めかけていたところ負傷者が出て予備軍としてワールドカップ準備合宿に呼ばれた。そして1か月の合宿でスタッフの信頼を得てワールドカップメンバーに選ばれ、全4試合位に出場した。
「仲間と一緒に信じられない経験ができた。これは経験しないとわからない!」
「夢は?」と記者に質問されると「世界チャンピオンになること」と答える。
夢に近づくためにさらに成長していくレ・ブルーの1番を応援したい。