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「将来のことはゆっくり考える」。バスタロー[リヨン/元フランス代表]、また倒れる。

2021.12.01

ストレッチャーで運ばれるバスタロー。この日はNO8で出場していた。(Getty Images)



 オータム・ネーションズシリーズが終わり、トップ14が再開した。

 この日(11月27日)、トゥーロンのサポーターは、新しく着任したフランク・アゼマHCの指導の効果と、そして久しぶりに彼らのお気に入りのマチュー・バスタロー(リヨン)の姿を再びスタッド・マヨールで見られることを楽しみにしていた。

 トゥーロンで8シーズンプレーしたバスタローにとっても慣れ親しんだ庭だ。

 キャプテンとしてチームの先頭に立ってピッチに入る。トゥーロン名物の『ピルピル』(トゥーロンのサポーターがチームを鼓舞するために行うチャント)を聞くバスタローの顔に笑みが浮かぶ。見慣れた風景、聞き慣れた歓声。「帰ってこられた」と思ったのだろう。

 しかし開始4分で、ボールをキャッチして前進しようとしたバスタローが突然グラウンドに崩れ落ちた。膝が抜けてしまったようだ。苦痛に顔を歪ませる。そのまま立てずにストレッチャーで運ばれる。
 観客はスタンディングオベーションでバスタローを励ます。あまりにも呆気なく、彼のここまでの道のりを思えば残酷だ。

 18歳でプロデビューし、フランス代表キャップ数は54。特徴のある外見と爆発的な突進力で『バスタロケット』と呼ばれ、一気に人気者になった。バスタローのキャリアは波乱万丈だ。

 2007年、プロデビューする前に18歳で代表に初招集されるが、膝を痛めて試合に出ることはなかった。2009年の6ネーションズで初キャップを獲得し、その年の夏のNZ遠征ではオールブラックスに勝利した。
 が、その後トラブルを起こし3ヶ月代表資格取り消し、奉仕活動に従事することになった。

 翌年の6ネーションズで代表復帰、フランスはグランドスラムを達成した。しかし、その次の年のワールドカップNZ大会のメンバーには選ばれなかった。

 スタッド・フランセからトゥーロンに移籍し、2013、2014、2015年とヨーロッパチャンピオンになり、2014年にはトップ14でも優勝した。
 2015年のワールドカップイングランド大会には出場したが、準々決勝でNZに大敗して終わった。

 2017年から再び代表に選ばれた。なかなか勝てず苦しい時代だった。キャプテンのギレム・ギラドをサポートし、ギラドが負傷で不在の期間はバスタローがキャプテンを務めた。
 しかし、2019年の日本大会のメンバーから外れた。

 トゥーロンからリヨンに移籍し、ピエール・ミニョニHCに勧められ、それまでのCTBからNO.8に転向した。

「18歳でプロデビューした時はタフに当たれる選手が求められたけど、今は動けなきゃいけない。努力してきたけど、そこはやはり僕の弱みであり、チームの弱みになる。だからそこにしがみつくのではなく、自己変革することにした。試合中はノンストップで、まるで新しいスポーツをしているみたい。BKの人生は美しいね!」と笑う。

 2020年1月にアメリカのラグビー・ユナイテッド・ニューヨーク(メジャー・リーグ・ラグビー)に移籍、念願の海外でのプレーが実現した。ところが新型コロナウイルスの影響で、5試合でシーズンを終えてリヨンに帰ってきた。

 そして昨年12月に左膝の大腿四頭筋腱断裂という大怪我をした。リハビリに励み、復帰戦となった今年8月の開幕前の練習試合で今度は右手を骨折し、11月6日にようやく復活を遂げた。「またラグビーができることが、ただただ嬉しい」と喜びを打ち明けていたところだった。

 ミニョニHCは、「ゲームを落としたことよりも(13-19でリヨンの敗戦)、マチュー(バスタロー)を失ったことの方が悲しい。彼はここトゥーロンでも体を張って戦ってきた。そして今度はリヨンのために復帰するために奮闘してきた。胸が痛む」と悲痛な表情で述べた。

 MRI検査の結果、両膝の大腿四頭筋腱断裂と診断された。

 バスタローはツイッターで、寄せられた激励のメッセージに感謝するとともに、「将来のことはゆっくり考える」と投稿した。

 33歳、リヨンとの契約は今季まで。誰もこんな最後を望んでいない。




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