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ヤマハ新設「静岡ブルーレヴズ」の新社長、山谷拓志氏はクラブ事業立ち上げのプロ。

2021.06.24

堀川隆延GM兼監督と山谷拓志新社長が出会ったのは2005年だった(撮影:BBM)

 ヤマハ発動機株式会社は6月23日、2022年1月開幕の新リーグに向けて新たに設立する、プロクラブ「静岡ブルーレヴズ」の記者会見を静岡県庁で行った。
 堀川隆延GM兼監督は「この瞬間に立ち会えることを非常に嬉しく思う。とてもワクワクしています。日本一を目指して、静岡の皆さんと熱い思いを共有したい。強化だけではなく、普及、育成とやれる限りのことをやっていく」と意気込む。

 静岡ブルーレヴズ株式会社の代表取締役社長には、山谷拓志(やまや・たかし)氏が就任した。山谷氏は現在Bリーグの茨城ロボッツで代表取締役社長を務めているが、6月30日付で同役職を退任予定。縁もゆかりもなかったという静岡に来て、初のラグビークラブ運営に携わる。

 山谷氏はクラブ事業の立ち上げ、そして再建のプロだ。2007年に日本バスケットボールリーグ(JBL)に参入する栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)の代表取締役社長に就任。プロクラブを0から作り上げ、設立3年目(参入2年目)にはチームを日本一に導いた。さらに事業でも成功を収め、3期連続で黒字化を達成している。
 その後JBLの専務理事を経て、2014年から当時経営難に陥っていたつくばロボッツ(現・茨城ロボッツ)の代表取締役社長となり、再建に従事。2021年にB2リーグ準優勝とB1リーグ昇格を決めた。

 一方で堀川監督がクラブの事業化を検討し始めたのは、2019年のW杯が終わったころ。清宮克幸 日本ラグビー協会副会長がW杯前にプロリーグ構想を打ち出した、少しあとの話だ。
「会社の中で事業としてやっていくのか、そのままの形を維持するのかを1年くらいは議論しました。新たな法人は事業化、社会化を掲げて発足する。ヤマハ発動機の部活から一歩出て、静岡と一緒にラグビーの発展を持続したい思いから法人化設立にいたりました」

 そして新会社の立ち上げが決まり、その社長にふさわしいと堀川監督が目をつけたのが山谷氏だった。2人の接点は、堀川監督が現役を引退しチームスタッフとなった2005年まで遡る。当時、山谷氏は株式会社リンクアンドモチベーション(宇都宮ブレックス運営会社)のスポーツマネジメント事業部長に就いて、教育研修などをスポーツチームに広げる仕事をしていた。ヤマハ発動機ジュビロでも選手のリクルーティグで使うパンフレット制作業務などを担当。堀川監督とはそこで出会った。

「(当時)山谷さんからチーム作りのアドバイスをいただく機会がありました。その時にオービックシーガルズ(当時リクルートシーガルズ)のチーム作りに共感した(山谷氏は元アメリカンフットボール選手。リクルート時代は現役引退後にオフェンスコーチを2年務めた)。『一流を採用しない』という強烈なコンセプトのもと、育成を大事にして日本一を目指す。そういう考え方に非常に惹かれて、僕がコーチ、監督をやる上での礎にもなっている。なので今回立ち上げが決まった時は、(社長は)山谷さんしかいないだろうと」

 そこで堀川監督は昨年末、山谷氏がいる水戸へ出向き、社長就任のお願いをした。当時を山谷氏が振り返る。
「実は何度かお断りをさせていただいたのですが、(堀川監督が)あまりにも熱心だった。(話を聞く中で)ラグビー界で誰もやったことのないチャレンジをすることにとても惹かれた。立ち上げや再建など0から新しいものを生み出すということは、好きなのか得意なのか関わってきたので、またそのチャンスが巡ってくるのであればと(引き受けた)。ただ何より茨城ロボッツからの理解が大きかった」

 山谷氏は宇都宮ブレックス時代、田臥勇太を獲得するなど大胆な補強を行ってきた。そうした補強については堀川監督に一任するとしているが、ビジネスの観点から持論を述べる。
「目玉選手の獲得などは事業的には大事な判断になります。企業チームは一定の予算で決めることになるが、プロクラブになれば投資という観点が出てくる。この選手が来ればこれだけ稼げるかもしれないという見込みがつけば投資をしようと。もちろんリスクも伴いますが、今後は大胆にやる必要があるかもしれません」

 ヤマハ発動機は長らく、無名選手を鍛え上げて強くする「育成」を強みとしてきた。その方針は引き続きブレずに取り組んでいく。ただ堀川監督もそれに頷く。
「日本一を目指す上での強化という視点では、一流選手も確保したい。その化学反応で上昇していくカルチャーを作る。そこの両立が大事になる」

 山谷氏がこれからラグビー界にどんな仕掛けを施していくのか。その動向に注目したい。

【プロフィール】山谷拓志
やまや・たかし/1970年6月24日生まれ・51歳。高校受験の際にたまたま日本選手権で慶大がトヨタ自動車を破る試合を見る。慶應でラグビーがしたいと思い慶應高に進学も、アメリカンフットボール部に入部。4年時はバイスキャプテンを務め、学生日本代表にも選ばれた。’93年に株式会社リクルートに入社。リクルートシーガルズに入部し、’96、’98年度日本選手権優勝。’01年から2年間オフェンスコーチを務めた。翌年に日本社会人選手権で優勝。’05年にリンクアンドモチベーション、スポーツマネジメント事業部長に就任。’07年に株式会社リンクスポーツエンターテイメント(宇都宮ブレックス運営会社)の代表取締役社長に就任。’09年度にJBL優勝、3期連続で黒字化を達成した。’08、’09年に日本トップリーグ連携機構による優秀GM表彰「トップリーグトロフィー」を受賞。’13年にJBL専務理事を務め、’14年には経営難に陥っていた茨城ロボッツ・スポーツエンターテイメント(茨城ロボッツ運営会社)代表取締役社長に就任。再建を託され、’16年にB2リーグ参入、’21年にB2リーグ準優勝とB1リーグ昇格を決めた。6月30日に代表取締役社長を退任予定。静岡ブルーレヴズ株式会社代表取締役社長に就任

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