18シーズン続いたトップリーグは2月20日に開幕するトップリーグ2021で幕を下ろす。2003年から始まったトップリーグ。その始まりをラグビーマガジンの掲載の記事から振り返りたい。第3回は「ジャパンラグビートップリーグ」に名称が決まった時のニュース。2022年1月開幕の新リーグの名称発表は6月。こちらも楽しみだ。
◆第1回(初めて明るみに出た「日本リーグ」構想)
◆第2回(2003年度から開始決定!「スーパーリーグ」構想)
ラグビーマガジン2003年1月号掲載
文◎美土路昭一
名称は「ジャパンラグビートップリーグ」
来年9月13日開幕!
「スーパーリーグ」は商標登録で断念
長らく「仮称」のとれなかった社会人新リーグの名称が、ようやく決まった。
通称トップリーグ。
詳細は現在詰めている段階というが、これからはラグビーファンだけでなく、一般への浸透度も高めていかなくてはならない。
「スーパーリーグ」という仮称で呼ばれてきた社会人新リーグの正式名称が「ジャパンラグビートップリーグ(通称トップリーグ)」に決まり、11月15日に開かれた記者会見で日本ラグビー協会から発表された。
名称の「謂われ」として、日本協会は報道資料の中で「日本ラグビーの最高峰=トップのリーグであること」「日本ラグビーに関わるすべての選手が目標とする、日本ラグビーの『トップ』であること」「ファンの皆様が覚えやすい名称であること。また、お子様からお年を召した方々まで親しみをもってもらえる名称であること」の3点を挙げている。町井徹郎会長は記者会見で「日本ラグビーの頂点として、みんなが挑戦していくリーグにしたい」と抱負を語った。仮称ながら、すっかり定着していた「スーパーリーグ」は、町井会長も「独占的に使えないので」と語ったように、7月の概要発表の段階で明らかになっていた商標登録の問題をクリアできなかった。
来年9月13日に開幕するトップリーグは、現在、準備委員会で運営の細部を詰めている段階。12月下旬の日本協会理事会の承認を経て、詳細が公表される予定だ。来年はじめに運営委員会が設立され、本格的準備がスタートする。真下昇・専務理事は「(運営機構を)協会外に置くべきという意見があるのも分かっているが」と断った上で、同委員会は日本協会内に設置、一部の専門スタッフ以外は日本協会の現有スタッフで運営していく方針を明らかにした。冠スポンサーなど協賛企業探しは現在も継続中という。
今回の発表は、サッカー界ならJリーグの名称発表に相当するイベントのはずだったが、Jリーグの華やかさとは対照的に、15日の記者会見は秩父宮ラグビー場のプレスルームで、実にひっそりと行われた。
記者会見の開催を通知するプレスリリースが出たのは前日の午後。内容は、理事会後の決定事項発表というトーンで、出席者も広報委員長になっていた。これではメディアの関心を引くのは難しい。さらに、記者会見の時刻は午後7時18分。新聞の立場から言えば、プロ野球が閉幕して締め切り時間が繰り上がったこの時期にこの発表時刻では、紙面のスペースを割きようがない。
早ければ翌16日にも、トップリーグ一番乗りのチームが決まる可能性があったため、その時に仮称では、と発表を急いだようだ。しかし、各地域リーグの動向は何週間も前から分かっていたこと。出席者の背後に協会旗を貼っただけの会見場は、準備不足を物語っていた。
参加チーム数、構造、初年度参加チームの選出方法、そして今回の正式名称と、トップリーグの骨格はこれですべて明らかになった。今後発表される事項は、運営上は重要ではあっても「全チームをプロ化する」というような内容でない限り、世間一般の目を引きつけるだけの注目度は持ち得ないだろう。正式名称の発表は、開幕前に花火を打ち上げる最後の機会だったかも知れない。
この寂しい記者会見の2日後、サントリーがトップリーグ一番乗りを決めた。クボタの頑張りもあって、終盤まで緊張感が続く、記念すべき試合にふさわしい内容。しかし、舞台がトップリーグの主会場にもなる秩父宮ではなかったのが残念だった。会場の栃木県グリーンスタジアムは立派な競技場で地元協会の運営にも問題はなかった。ただ今年は、優勝チームが初代のトップリーグ参加チームと最後の東日本チャンピオンになるという特別のシーズン。それだけに、会場選びには相応の配慮が欲しかった。’97年からの5年間で、優勝決定が最終節までもつれたのは昨年のみ。この試合が優勝争いの一戦となる可能性は十分に予想できたはずだ。
それでも、新聞各社や通信社、テレビ局が多数取材に訪れたが、現場でのメディア対応はまったくなし。日本協会がトップリーグを本気でプロモートする気なら、リーグのロゴマーク入りボードの前で、町井会長がサントリーの大久保直弥主将にトップリーグの参加章を手渡すぐらいの演出があってもいいはずだ。
ところが、日本協会はおろか主催の関東協会のプレゼンスすらなく、試合後は、テレビを中心にピッチ上で早い者勝ちのインタビューが始まる始末。頭に巻いたテープに鮮血がにじんだままの大久保主将はタッチライン際で立ったままで取材に応え、活字媒体による土田監督への共同取材も、記者室のイスを土田監督自身も参加して並べ直し、車座で行うという有様だった。
あの日本協会が主催し、この関東協会などが主管となって運営されることになるトップリーグ。本来なら華やかなムードに包まれるべき数日間に、逆に不安が募った。