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自分で限界を決めない。鹿児島大出身、下山翔平(宗像サニックス)の源流

2020.06.03

183センチ、95キロ。大学の後輩、東芝SO中尾隼太とは3学年違い。(撮影/BBM)



 長崎北高校、鹿児島大学教育学部で学んだ。
 宗像サニックスブルース のバックローとして活躍してきた下山翔平(したやま・しょうへい)は、シーズンが途中で打ち切りとなった年に現役引退することについて「中途半端な感じはありますが」と前置きした上で、「やれることはやれたのかな、と思います」と玄海グラウンドでの日々を振り返る。

 この人、ブルースに在籍したのは6シーズンも、格上をやっつける爽快感を求める戦いを、もっと前から追っている。
 地方大学のラグビー部でプレーしながら、U20日本代表に選ばれた経験も持つ。大仕事をやってのけたのは大学4年時、キャプテンを務めた時だった。
 その2013年度シーズンは充実していた。チームを史上初めて九州学生リーグの1部Aブロックへ導いた。そして、全国大学選手権に何度も出場している福岡大を破る大一番(24-12)をやってのけたのだ。
「あの試合は、自分の中でターニングポイントになりました」と話す。

 U20日本代表に選ばれたからといって、将来はトップレベルでプレーを続けたいと常に思い続けたわけではない。
「強い相手に勝ちたい。少しでも上にいきたい。すべては、チームの仲間と、そういう気持ちで(ラグビーを)やっていた結果だと思っています」
 全力を尽くした日々が、福大撃破につながったし、現在に到る源流だ。

 ブルース入団後もトヨタ自動車に勝った試合に出場するなど、アップセットの快感を味わった下山は、これまでの人生を振り返って言う。
「自分で限界を決めてはいけない」
 若き日の自分と同じように、強豪校でないチームでプレーする選手の中には、「こんなものかな」と自らフタをする人もいるかもしれない。
 そんな弱気は成長の敵だ。

 下山自身、宗像にやって来てから3年目まで、ほとんど試合に出られなかった。キャプテンも務め、信頼の厚かった田村衛土が同じポジションにいたからだ。
 でも、控えに甘んじていた間も腐らず、自分の強みを見つめ、磨いたから好機が巡ってきたときに逃さず、掴めた。
 自身の生きる道もしっかり見て生きた。
「アタックできる選手は周囲にたくさんいたので自分はディフェンスで、と。低いタックルを徹底しました」
 ボールへの嗅覚も高めた。
 そんな積み重ねが、ブルースでのトップリーグ出場14試合の基礎になった。

 新しいシーズンからはスタッフとしてチームに残る。「選手のことを第一に考える」との思いを胸に、これまでと違う形でブルースに貢献するつもりだ。
 そして、この地でもっと多くのことを学んだ後、人生のどこかで教職にも就きたいと将来を描く。

 そのとき指導者になれたら、ブルースで学んだ戦略やスキルを、目の前にいる選手たちに教えてあげたいと考えている。
 大学時代、トップチームがどんなことをやっているのか、考えているのかを知りたくても、情報を得る機会がほとんどなかった。日本のあちこちに、同じように情報に飢えている若者たちがきっといると思う。

「ただ、大学時代に自分たちでいろいろ戦い方を考えたり、練習していたことが、のちにコーチングを受けられるようになってからも役に立ったと感じています」
 自分の頭で考えることで、コーチングの先を読み取る力が自然と備わった。だから、チーム、指導者が何を求めているのか理解してプレーできた。

 2017年12月14日の豊田自動織機戦では、トップリーグで唯一となったトライを決めている。
 敵陣深い地域でピック・ゴーを繰り返し、最後、下山がインゴールにボールを置いた。
「(自分らしい)泥臭いトライでした。ただ、場内では鶴岡(怜志)さんの名前がトライスコアラーとして放送されたんですよ! 記録としては、しっかり自分の名前になっていたので良かったんですけどね」
 そんな話も、未来の教え子たちが喜びそうだ。

28歳。2017年度には10試合に出場した

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