ラグビーリパブリック

ギョウザ耳列伝 vol.1 桜庭吉彦

2014.08.19
V7新日鉄釜石の強さは耳の痛さ…「ギョウザ耳はラグビーをやってきた証です」
桜庭吉彦
(元日本代表ロック、秋田・秋田工業高校―新日鉄釜石―釜石シーウェイブス)

 あなたにとってギョウザ耳とは?
 いきなり、そう聞くと、桜庭吉彦の目に驚きの色が走った。日本代表キャップ(国代表戦出場)「43」を誇る名ロック。でも唐突な質問にも、ほとんど動じない。「ギョウザ耳とは、ギョウザ耳とは…」と漏らし、実直な47歳はしばし、考える。
 「ラグビーを通じて得たものというか、何というか、ええ、ラグビーをやってきた証のようなものです」
 前代未聞。奇想天外。世界で初めて、『ギョウザ耳』にスポットをあてた連載が始まる。ラグビーでは、フォワードの少なくない選手の耳が潰れている。プロップやロックはスクラムで耳をこすり、フランカーたちはタックルで痛めるのだ。
 医学的には、「耳介血腫」というらしい。ラグビーほか、レスリング、柔道など、耳を激しく相手・味方とすりつけるシーンの多いポジションの選手がなるようだ。耳がこすれると、毛細血管が破裂し、耳に血がたまりはれ上がる。病院にいって、血を注射器で抜いてもらえば、元にちゃんと戻る。
 膨らんだ状態のままで我慢していると、いびつなカタチで固まってしまう。これがギョウザ耳、海外では「カリフラワーイアー」と呼ぶ。その過程は、語るも涙、聞くも涙、もう痛いのなんのって。
 東北の夏。2014年8月。地元の祭り『釜石よいさ』で、桜庭は踊った。その翌日の日曜日、JR釜石駅前の釜石シープラザの1階、釜石シーウェイブス事務所の前での「ギョウザ耳」インタビューだった。
 桜庭は、右耳を秋田・秋田工業高校3年のときにスクラム練習で潰した。当時のポジションは背番号「5」、つまり右ロックだった。遠い記憶がよみがえる。
 「高校のときは比較的、こまめに血を抜いていたんです。ええ、病院で抜くことができました。ちゃんと白いタオルを耳にあてて、白いヘッドキャップをかぶって。だから右耳はそんな、悪いカタチの耳じゃないんです。でも、こっちは」
 そう言って、192センチの背筋を伸ばし、右手で左の耳を軽く握った。パッと見、右耳より、左耳は形状の歪みがひどくみえる。
 「こっち(左耳)は、社会人になって、たまたま東京に遠征したときになったんです。かなりスクラムの本数を組んで、その時にブワッとわいたんです。なかなか(血を)抜く機会がなくて、結果的には腫れ放題になってしまったんです」
 桜庭はラグビーの名門の秋田工高卒業後の1985(昭和60)年春、日本選手権7連覇を果たした新日鉄釜石に入社した。あの伝説の「北の鉄人」のメンバーとなったのである。ポジションは右から左ロック、つまり背番号「4」に移った。まだハタチ前だった。
 「社会人になって、ヘッドキャップをかぶらなくなったんです。(ポジションは)4番になって、スクラムでは1番の長山さん(時盛)や石山次郎さんのうしろについたんです。やっぱり高校のときと比べると、パックが全然、きつかった。こうガチッと固くて。相手と当たったときの衝撃もちがいました」
 当時、新日鉄釜石のグラウンドには伝説のプロップ、洞口孝治さん(故人)が自ら溶接してつくった特製スクラムマシンがあった。肩をあてる台座が4個、間隔が狭く、おのずとフロントローのでん部の隙間もわずかとなる。そこにロックは頭をねじ込む。
 「スクラムマシンのときは、ヒットはしなくて、フロントローがセットしたところにロックが頭を突っ込むのです。きつきつのけつのパックのところに。もう耳も随分、こすれていたでしょう」
 試合のスクラムでは、右プロップ、左プロップ、いろんなタイプのプロップに桜庭の耳は対応し、ゆがんでいった。
 「洞口さんのうしろにもついたことがあります。洞口さんはご自身が強いじゃないですか。相手のパワーを吸収してくれます。足を下げずに、ぐんぐん前にいく。ラクでした。石山さんと長山さんはヒットスピードがあるじゃないですか。そのスピードについて、ウエイトを掛け続ければ、おのずと前に出られるスクラムでした」
 V7のスクラムのパックはきつかった。「7連覇の新日鉄釜石の強さが耳の痛さだった」と言えなくもない。ぽつりとこぼす。
 「現役時代…ずっと耳が痛かった」
 当時の新日鉄釜石には長山、石山、洞口…とそうそうたるメンバーが並んでいた。練習のつらさや耳の痛みを口にする雰囲気は皆無だった。
 「痛みや血が出るのは関係ないです。どんな状況であれ、当たり前のように首を(フロントローのでん部の間に)突っ込んで、当たり前のようにスクラムを押さなきゃいけなかった。責任みたいなものがありました」
 実は左耳のほうが右耳より変形している。左は上部の軟骨が少し出っ張っているため、常にすり切れた状態になっていた。
 「現役中、365日中、360日ぐらい、左耳は傷がついていました。血が出て、うむんです。寝ていると、枕カバーにべとりと血や液(ずい液)がつくんです。朝起きる時、もう大変で…。苦労というか、枕カバーとお友達状態でした」
 現役を引退し、やがて10年となる。「痛みへの懐かしさは?」と聞けば、豪快に笑いころげた。
 「ないです。ない、ない。でも、いつも耳がわいていたというのは、その時の勲章みたいなものですね。ひどい痛みに耐えていた自負はあります。だって、そこを逃げたら、ラグビーをできないわけです」
 ただいま、釜石シーウェイブスのデイビジョンマネージャーとして、チームをまとめている。ラグビーの2019年ワールドカップ(W杯)日本大会組織委員会の「W杯アンバサダー」でもある。
 ギョウザ耳を誇りとし、人と酒を愛する秋田出身の好漢はしみじみと漏らす。
 「かつてのラグビーファンをラグビー場に呼び戻したい。各地を訪ね、一緒にラグビーをするだけでなく、観るだけでもいい。一緒に飲むだけでもいいと思います。酒場をめぐり、W杯のよさ、ラグビーのオモシロさを伝えていくのです」
 ラグビーのオモシロさをきっと、ギョウザ耳の痛みが支えている。10人10色。どのラガーマン、どの耳にもちょっと切ないストーリーが秘められている。
(文・松瀬 学)
2014年8月19日掲載
【筆者プロフィール】
松瀬 学(まつせ まなぶ)
ノンフィクションライター。1960年生まれ。福岡県立修猷館高校、早稲田大学のラグビー部で活躍。早大卒業後、共同通信社に入社。運動部記者として、プロ野球、大相撲、オリンピックなどの取材を担当。96年から4年間はニューヨーク支局に勤務。2002年に同社退社後、ノンフィクションライターに転身。人物モノ、五輪モノを得意とする。『汚れた金メダル 中国ドーピング疑惑を追う』(文藝春秋)でミズノスポーツライター賞受賞。著書に『日本を想い、イラクを翔けた ラガー外交官・奥克彦の生涯 』(新潮社)、『ラグビーガールズ 楕円球に恋して』(小学館)、『負げねっすよ、釜石 鉄と魚とラグビーの街の復興ドキュメント』(光文社)、『なぜ東京五輪招致は成功したのか?』(扶桑社新書)など多数。
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