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【ラグリパWest】捲土重来のために㊤。目黒学院高校ラグビー部

2026.08.12

目黒学院の6回目の高校日本一を目指し、日々指導を施す5人。左からチーフコーチとして主にBKを担当する倉上俊さん、付属中学校監督の今関大輔さん、監督の竹内圭介さん、S&Cコーチの西山一貴さん、FWコーチの小倉純一さん。寮長でもある小倉さんをのぞき、4人は教員であり、教育的な指導も強みだ

 エンジのジャージーに楕円球を持つ高校生たちがひれ伏した時代があった。左胸には山吹色で<目黒>と入る。

 チームができたのは1959年。元号でいけば昭和の34年である。今年は創部68年目になる。幾星霜を超えて来た。

 冬の全国大会での優勝と準優勝はともに5回。この10の決勝進出数は東福岡や桐蔭学園などの11に次ぎ、歴代4位になる。

 冬の全国大会は「花園」と呼ばれる。開催会場が大阪の花園ラグビー場であることからだ。出場そのものは24回を数える。

 最後の決勝進出は1982年度の62回大会。<久我山>で通る國學院久我山との東京決戦は0-31で敗れた。以降は8強が最高だ。

 その45年ほど前の黄金に日々に還るべく、5人の指導陣が目黒学院に集まっている。目黒からの校名変更は1998年だった。

 強化の一環として、この夏も恒例の関西遠征を実施した。7月20日から24日まで4泊5日の日程。大型バスをチャーターした。

 5人の長、OB監督の竹内圭介は情報科の教員でもある。関西遠征の意義を口にする。
「すごくあります。去年は自信になりました」
 俳優などで活躍する竹本孝之に似るか。黒い双眸には優しさがたたえられている。

 昨年の関西遠征は3戦全勝とする。NO8にトンガ人留学生のロケティ・ブルースネオルがいた。105回目の花園大会は3回戦敗退。大阪桐蔭に5-20。ロケティは高校日本代表になり、竹内の母校の東洋大に進んだ。

 竹内は50歳。コーチから監督に昇格して10年目に入った。関西遠征はほぼ毎年続けている。小5まで兵庫県に住んでいて、土地勘はある。そして、関西の高校ラグビーを「ボールが動く」と評している。

 今年は3連敗した。東海大仰星に0-61、京都成章に21-24、関大北陽に31-49。竹内は梶村真也に試合後に話しかけた。
「自信を砕いてくれたね」
 梶村は関大北陽の監督である。

 5月の都春季大会では東京王者になった。
「勝たせてもらったけど、ウチの戦い方ではありません。ディフェンスにびしびし行って、ワンチャンスで獲りきらないといけません」
 早実との決勝スコアは33-32だった。

 翌月の関東大会は4校制のAブロックで國學院栃木に14-22と及ばない。さらに関西での3連敗。慢心はなくなった。今月8月は例年通り、新潟の妙高、長野の菅平と2回の夏合宿をこなし、チームを立て直してゆく。

 竹内の目標は明確だ。
「日本一です」
 最後の全国優勝は59回大会(1979年度)だった。終了間際、久我山から逆転トライを挙げ、16-14とうっちゃる。当時を知る者は5人の指導陣の中にはいない。

 最年長はOB外部指導員の小倉純一である。担当はFWコーチと寮監。竹内より5つ上の55歳だ。目黒の黄金期が終わるのは準優勝した62回大会である。小倉の入学はそれから5年たった1987年。その強さは話として伝え聞いている。

 小倉や竹内の現役時の監督は幡鎌孝彦である。幡鎌は初代監督の梅木恒明の薫陶を受けた。初めて全国優勝する49回大会(1970年)は3年生FLだった。梅木は強豪化に成功するが、スキャンダルなどで退任する。幡鎌はそのあとを受けた形になった。

 小倉は自分自身のことを語る。
「スクールウォーズみたいな感じでした」
 当時、血気盛んな部員は少なからずいた。保健・体育教員でもあった幡鎌は理事長を説得して小倉の裏判をつく。人生を開かせた。それはまた、梅木のやり方でもあった。

 小倉は幡鎌の母校でもある法大に送ってもらえた。3年時には学生日本一になる。大学選手権は29回大会(1992年度)。早大を30-27で降す。その影で挫折もする。ひとつ下の同じHOは坂田正彰。サントリー(現・東京SG)で日本代表キャップ33を得る。

 そういう経験ができたのも、収容力が豊かだった高校と幡鎌のおかげだ。
「幡鎌先生はもちろん、色んな人に助けられなければ、今の自分はありません」
 だからこそ、チームの完全復活にかける思いは強い。コーチは16年目に入った。

 とっかかりは幡鎌からの依頼である。
「先生から、定年までもう一度花園に出たい。手伝ってくれ、と言われました」
 3年目に恩師の思いを現実化させる。22年ぶりに花園に出た。93回大会(2013年度)は3回戦敗退。大阪朝高に7-36だった。

 原動力になったのは最初のトンガ人留学生の2人である。日本代表になったテビタ・タタフとアタアタ・モエアキオラだ。2人は当時、2年生。テビタは東京SGのNO8、アタアタは神戸SのWTBになった。代表キャップそれぞれ20と4を得る。

 竹内は当時コーチだったが、現地に飛び、直接面接をした。間に入ってくれたのはマサソ・パウンガである。大東大OBでFW選手だった。トンガ政府の要人として架け橋になる。目黒学院は最初から代理人を入れていない。そのため第三者の思惑は介在しない。

 今年7月にも竹内はトンガに飛んだ。
「来年も2人、来てくれる予定です」
 今年のチームには4人のトンガ人留学生がいる。3年生のNO8フォノヘマ・シオネは180センチ、110キロの体を持ち、PRとして高校日本代表候補に入っている。

 留学生が来る。強くなる。選手が集まる。小倉は過去との比較をする。
「チームは圧倒的によくなっています。昔は経験者が2、3人でした」
 母校のコーチになった16年前、チームにいたのはほとんど初心者だった。

 小倉は完全復活の足音が高まる理由を別のところにも見る。
「竹内先生の器量だと思います」
 5歳上の自分を使い続けてくれている。留学生や選手が集まってきたのも、竹内が奔走した結果だ。そのことを小倉はわかっている。

(捲土重来のために㊦に続く)

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