みんなの山口良治先生が5月29日、世にいとまごいをした。享年84だった。
教え子ばかりでなく、寄る者すべてを優しく、温かく包み込む先生だった。
えびす様のような福々しい笑顔やグローブのように大きく、厚い手が印象的だった。
その影響力の大きさは、NHKが夜7時のニュースで短くない尺を使って報道したことでもうかがい知れる。
先生の卓抜した功績は伏見工のラグビー部を就任わずか6年で日本一にしたことである。ただの高校ではない。荒れていた。
「校舎の階上にいる生徒と目が合ったら、椅子が降って来る」
そう振り返った人もいた。
校内でのバイク乗り回しや喫煙、教師への悪態は日常茶飯事だった。その悪ガキたちをラグビーという格闘の入った球技を使い、更生させる。生きる支えを与えた。
「ラグビーはルールのあるケンカだぞ」
体を思い切りぶつけさせ、走らせまくって、悪ガキたちの血気を沈める。
1980年度の全国高校大会は60回。主将に平尾誠二を擁し、決勝戦で大阪工大高(現・常翔学園)を7-3で降した。終了直前、栗林彰が左コーナーに飛び込む。劇的に試合は決まる。絶叫とともにうれし涙を流す先生には「泣き虫先生」の愛称がついた。
その後、馬場信浩の『おちこぼれ軍団の奇跡』が出版される。この深紅のジャージーの初優勝までを追った。本を原作にテレビドラマの『スクール☆ウォーズ』が作られた。挿入歌の『ヒーロー』は麻倉未稀が歌った。先生の名は一気に知れ渡った。
平尾はSOだった。「ミスター・ラグビー」になった。俳優のように整った容貌、スリム、知性があった。日本代表としてのキャップは35。代表監督や入社した神戸製鋼(現・神戸S)のGMなどもつとめた。その原型は先生の猛練習によって築かれた。
平尾は10年前、病のため世を去った。享年54。先生は泣いた。
「平尾、順番が違うやないか」
その同じ年、伏見工と洛陽工が統合された京都工学院が誕生している。
先生の芯は他者への愛だった。総監督に退いたあと、指導者とぶつかった教え子を迎えに翌朝6時に家庭訪問をする。
「そのまま放っておいたら、クラブにも学校にも来んようになる」
機微がわかる。その教え子は教員になった。
2000年度の全国大会は80回。伏見工は3回目の全国制覇を果たした。雨中の決勝戦は佐賀工に21-3。先生は監督を譲った教え子の高崎利明と傘を差さず、ブレザーを濡らし、見守った。一緒に戦った。当時のFL主将は大島淳史。京都工学院の現監督である。
ニュージーランドにも何度か遠征した。高校生の見聞を広げさせてやりたかった。福祉から生活費が出ている家の子もいた。先生は費用を用立てた。1人や2人ではない。悲しい思いをさせたくなかった。
その費用は先生の実入りで足りない分は実家から都合したと聞いている。先生の実家は福井県の美浜にある。農家だった。
「この辺にウチの田んぼがあったような…」
「おまえが食ったんじゃ」
父上にそう言われたらしい。教え子の借金を肩代わりしたこともあった。
青い日本海が広がる故郷で、先生は野球でも抜けていた。川藤幸三が教えてくれた。
「そら、よっちゃんはキャッチャーの位置から座ったまま二塁に送球できるんやもん」
強肩だった。プロに入ってもひとかどの選手になっていただろう。川藤は阪神に入団。代打で名を馳せる。先生の名はよしはる。愛称は音読みの「りょうじ」だった。
その野球部が入学した若狭農林(現・若狭東)にはなかった。実業校進学は農家を継がせたい父上の希望に沿った。先生はラグビーを始める。日大にラグビー推薦で入学するが寮生活、上下関係、下働きなどで疲弊した。
先生はより教員養成に近い日体大への2年生編入を考える。日大監督の芳村正忠はその話を聞き、日体大監督の綿井永寿への紹介状を書いた。2人の大度がなければ、先生は世に出ていない。だからこそ、許し、受け入れることの大切さを知っていた。
そして、日体大での猛練習で磨かれ、日本代表になる。その紅白のチームで、先生の代名詞である「信は力なり」を授けられる。当時の代表監督、大西鐵之祐が教えた。
この「信は力なり」が全国初制覇の伏見工から京都工学院に続く、神がかり的な試合を生んだ。信じる。不安を払ってその思いを貫く。選手たちが試合ではく黒パンツの裾にはこの言葉が金糸で刺繍されている。
先生の代表キャップは13。FLながらキッカーもつとめた。1971年のイングランド戦は秩父宮でナイター開催だった。監督は大西。先生は唯一の得点をPGで決めた。スコアは3-6。この一戦は語り草になっている。
その代表経験者でありながら、先生は高校生と同じ位置に降り、一緒に泥にまみれた。履歴が評価され、13年前、世界のラグビーを統括するIRB(当時)から「ラグビー・スピリット賞」を受けた。
先生の孫2人はラグビーにとりついた。兄の小村健太はRH大阪のFB、弟の真也はトヨタVのSOやFBとしてプレーを続けている。真也は日本代表キャップ3を得た。先生の血は確実に降りている。
そのよろこびとは別に先生は死線を幾度かくぐり抜けた。40代で脳腫瘍を患った。その後、脳梗塞にも見舞われた。
「体半分が痺れているんや」
杖がないと歩けなかった。その痛みや煩わしさからも今は解放された。
先生の訃報を聞いた時、思い浮かんだのは小説『樅ノ木は残った』だった。山本周五郎が幕府の陰謀から仙台藩を守り抜く原田甲斐を描く。先生もまた全国大会優勝4回のラグビー部を半世紀の間、守ってきた。
<神、仏、そして魂、もし神仏があり、人間にたましいがあるとしたら、これらは騙すことも晦ますこともできない。(中略)。死んで、たましいになれば、なにもかも見通すことができる>
先生は今、すべてを見通していることだろう。これからも慕うみなをお導き下さい。長い間、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。
=山口先生を除き敬称略=
