学校が閉じる。統合される。部活としてのラグビーはそれに準ずる。
大阪に島本という高校があった。年末年始の全国大会には4回出場した。堀江翔太を出した。今は埼玉WKのコーチ。HOとして日本代表キャップは76を得た。
その高校が今年3月末で閉校した。阿武野に吸収された。ラグビー部はなくなった。西村康平にとっては我がことである。勤務する布施工科も来年度末で閉校。東大阪みらい工科に合流する。今年4月に開校した。
西村は保健・体育の教員と監督である。
「統合の話を聞いた時、涙があふれて止まりませんでした」
ラグビー部は3回の全国大会出場がある。
悲哀を感じていても何も変わらない。西村は動く。2校のジャージーを東大阪みらい工科に残す。布施工科はエンジとグレーの太い段柄、島本は黒に黄一本線である。布施工科をファースト、島本をセカンドにする。3校ともに公立校だ。
西村は島本と重なる縁がある。茶色の眼鏡を通しての視線は柔らかい。
「思い入れがあるのです」
この高校のあった島本町で育った。町は大阪の北東部にあり、京都と境を接する。羽柴秀吉が明智光秀を討ち、天下取りの道を歩む端緒になった天王山がそびえる。
この町で活動する島本ラグビースクールに西村は入った。小1の時だった。
「高校のグラウンドで練習していました」
中学の進路調査では3つ書くところを2つで終えた。「怒られました」。進学校の茨木の次に島本と書いた。
西村は茨木から筑波に進む。助力をしたのは監督の奥野義房。日体大OBである。
「先生にはお世話になりました」
奥野は島本の監督時代、最後となる4回目の全国大会にチームを出場させた。大会は76回(1996年度)。2回戦で東福岡に18-24で敗れた。以降、大阪の公立校は全国大会に出ていない。その指導力も西村は尊敬する。
奥野は17年前、がんのために逝った。50歳だった。保健・体育の教員でもあった恩師の存在もあって、西村も同じ道を選んだ。筑波ではSOとして公式戦に出場。その大学院に在学中にはコーチもつとめた。
島本OBが東大阪みらい工科のラグビー部顧問についたこともある。谷晋平は島本の最後のラグビー部監督、保健・体育教員として今春の閉校を見届けた。そして、東大阪みらい工科に赴任した。
西村は笑顔を浮かべる。
「僕だけでジャージーをもってこれません」
昨年、解散した島本のラグビー部OB会に根回ししたのは谷だった。谷は天理大出身の36歳。現役時代はSHだった。
西村は布施工科に来て、11年目に入った。統合を聞いた時の涙はラグビー部OB会が非常に協力的だったこともある。
「ちょっとでも、なんかしてやりたい、そういう思いにあふれています」
夏合宿の寄付金も「異常なほど」集まる。全国大会出場の過去がある私学と比較すれば、その10倍をはるかに超える。
布施工科の創立は1939年(昭和14)。ラグビー部は8年後にできた。実業校は卒業すれば社会に出て働く人間が中心になる。そのため、高校が最終学歴になることが多い。母校愛は自然と深くなってゆく。
ラグビー部の全国大会出場は布施工の時代だった。最高位は3回戦進出。頂点にもっとも近かったのは最初の65回大会(1985年度)。2回戦で大東大一に6-16で敗れるが、相手は優勝する。決勝は本郷を8-0で退けた。
その布施工科で12月7日、<ジャージー裁断式>があった。東大阪みらい工科のファーストとセカンドを作るためである。布施工科からは79歳のOB会長、正木猛司ら7人、島本はOB2人が見守った。島本側はジャケットを着用した正装だった。
式はジャージーがプリントされた白い布からパーツごとにはさみを使って切り落とす。布施工科の2年生20人、東大阪みらい工科の1年生9人の選手が参加した。
それらをジャージーに仕立てるのは山本篤志の仕事だ。今年4月、ラグビーウエアの企画や製作を主にする会社<asc+>(アスクプラス)を立ち上げた。
山本は39歳。最上のA級を持つトップレフリーでもある。リーグワンの二部に属する花園Lのチームレフリーも兼ねる。この2つが生業になる。中学校の教員は辞した。
ジャージーの製造は介する先輩がいて、工房で働きながら学んでいる。
「これまでのように、頼んで、納品して、終わり、ではなく、せっかくの思いを大切にしたい、と思いました」
ラグビー界で初めてであろう裁断式を西村との話し合いで実施した。
布施工科の最後の主将になる吉元凱矢(よしもと・がいや)は話す。
「歴史を受け継ぐことが軽いことではないことがわかりました」
今秋あった105回の全国大会府予選は<布施工科・東大阪みらい工科>のチーム名で戦った。4強戦で東海大大阪仰星に0-63で敗北した。吉元はFLで先発している。
最後の布施工科の名が残る新人戦(兼近畿大会予選)の初戦は年明けの1月11日に決まっている。新チームで戦う相手は茨木。西村の母校でもある。
島本がなくなり、布施工科も同じ道をたどる。それはまた、人生と同じである。人はいつかは世を去る。そのことを受容して、生きた証(あかし)を残す。
証は子や孫であり、仕事や行動だ。語り継がれるのは人もチームも同じである。
「どこかで応援してもらえたら嬉しいです」
西村は言った。東大阪みらい工科のジャージーとして布施工科と島本はその証を残した。忘れ去られることは、ない。
