キャンパスの高所から見れば、北に琵琶湖が青く光る。
「帰って来た、という感じはあります」
高島忍はこの大学、立命館で過ごし、ラグビーに向き合った。33歳になった。
滋賀には北海道から付属高校のラグビー部を引き連れて来た。立命館慶祥である。11月22日から三泊四日の合宿を張った。高島は監督、そして保健・体育教員でもある。
北の大地に渡り、教員になって3年目に入った。暮らしやすさを感じている。
「ジンギスカンや海鮮など食べものが美味しい。ホッケは大きいのが500円くらいです」
手を両肩くらいに広げた。戦いの時には鋭くなる細い目は柔らかく下に向かう。
滋賀での合宿は年末年始の全国大会に備えてのものだ。開催地は大阪の花園ラグビー場。そこから大会は「花園」と呼ばれ、今回は105回目を迎える。出場は高島にとって人生初、チームとしては3年ぶり2回目になる。
立命館慶祥は南北海道の予選決勝で札幌山の手を33-14で破った。
「相手は大きい。左右に振りました」
力を速さでしのぐ。そのジャージーは大学と同じ黄紺の段柄である。
振るためにはつなぐ能力が必要だ。
「パスなどの基礎練習は毎日やりました」
北海道は中学ラグビーが盛んな関西に比べ、始まりのレベルは低い。それを補うためのメニューを入れてゆく。
その指導法を学んだのは横浜キヤノンイーグルス、略称は<横浜E>である。所属はリーグワンのディビジョン1(一部)。高島は社員選手として7季在籍した。169センチ、100キロの体で主にHOを任された。
公式戦初出場は2015年11月29日だった。リーグワンの前身、トップリーグのコカ・コーラ戦。31-25で勝利した。最後はリーグワン初年度の2022年シーズン。15戦すべてに出場した。12チーム中6位だった。
その2年前、沢木敬介が監督としてやって来る。目を見開かれる思いだった。
「沢木さんから学んだ考え方やプランを高校生に当てはめています」
沢木は5季を過ごし、2022-23シーズンにはチーム史上最高の3位に横浜Eを押し上げた。今年5月、退任した。
高島は現役引退後、育成・普及担当のスタッフとして、チームに1年残る。退社したのは2023年。31になる年だった。
「30歳で教員の道に進む希望がありました。それを超えると教える日数が少なくなります」
教員免許は大学在学中に取った。スポーツ健康科学部に在籍していた。
教員志望の出発点は父・聡である。
「影響は大きいです」
父は同じ付属校の立命館宇治の保健・体育の教員である。ラグビー部の監督も兼務する。高島はこの高校で3年を過ごした。競技開始は3歳。南京都ラグビースクールに入る。
初赴任が立命館慶祥というのは、高島が高大の7年を立命館で過ごした点を評価されたと言っていい。松田祐一が動いた。
「声をかけてもらえました」
松田は46歳。現在はラグビー部の部長であり、同じ保健・体育教員でもある。
親子鷹だった高校時代、花園出場はない。伏見工(現・京都工学院)と京都成章が2強を形成していた。大学では3年生の時に関西リーグを制する。立命館にとっては12年ぶり2回目。その後の優勝はない。
関西を制した2013年度の大学選手権は50回大会。予選プールで敗退する。明治には12-10で勝ったが、慶應には22-26、東海には35-42と届かなかった。
この3年時の主将は庭井祐輔である。庭井はHO、高島は左PRだった。
「庭井さんを目標にやっていました。ラグビーのことを色々と教えてもらいました」
その1年先輩を慕い、横浜Eに入った。庭井は日本代表キャップ10を持つ。
高大の7年間、成長させてもらった。その感謝を立命館慶祥に注ぐ。
「恩返しですね」
この中高は札幌の隣、江別にある。1995年、札幌経済が法人合併され、現校名になった。5年後、中学を併設する。その中2生の担任を高島はしている。ラグビーだけではない。
この高校の長所を高島は口にする。
「花園を狙え、かつ立命館に入学できます」
立命館を担保しながら、他大学の受験も可能だ。3つのコースのひとつに東大や医学部を目指すSPがある。
「立命館宇治は9割ほどが内部進学しますが、ここでは5割ほどですね」
地域性が認められている。
2月の一般入試は勉強のハードルが高いが、ラグビーは指定部活動に含まれ、競技歴があれば推薦的な入試を受けられる。
「ラグビー部は今、京都や岐阜から来ている子がいます」
高島は説明する。学校や個人が運営する寮があり、全国から受け入れ可能だ。
ラグビーの部員は女子マネ2人を含めて45人。この人数で12月27日に開幕する花園での全国大会に挑む。
「すごく楽しみです。まずは初勝利です」
高島は腕ぶす。初出場だった102回大会は1回戦で石見智翠館に7-34で敗れている。
花園ではメディアに囲まれることだろう。高島は社会人時代を回想する。
「田村さんや明石さんから取材を受け、原稿を書いてもらいました」
田村一博はラグビーマガジンの前編集長、明石尚之は編集者だ。メディアが後ろにつくのは好人物の証である。
高島は当時のキヤノンに左PRとしてトライアウトで入った。最初から評価されていた訳ではない。それでも最後には赤いジャージーに不可欠なひとりになった。この立命館慶祥でも同じような道をたどりたい。
慶祥の意味は、よきしるし。春には選抜、夏には7人制と全国大会に出た。花園出場で3冠。その吉兆は鮮やかさを増している。
