2015年9月19日、イングランド・ブライトン。世界を驚かせた日本代表の歴史的勝利から10年。インサイドセンターとしてピッチに立った立川理道の言葉から、“奇跡”と呼ばれた一戦の真実をたどる。(文/田村一博)
うれしくて、自家用車のナンバーを34−32にした人を知っている。日本のラグビーファンの記憶に刻まれているテストマッチにまつわる数字は、3−6(1971年/対イングランド)、28−24(1989年/対スコットランド)ときて、1995年ワールドカップの「145」(対ニュージーランド代表/17−145)と推移してきた。
そして、世界に嘲笑された年から20年経って刻まれたのが34−32。2015年9月19日、戦いの舞台はロンドンの南にあるブライトンだった。第8回ワールドカップ(以下、W杯)のプールBの初戦で、日本代表は優勝候補の一角だった南アフリカ代表から逆転勝ちを手にした。
世界を揺るがした世紀の一戦は大会後、国内のラグビー熱を高めた。スコットランドには敗れるも、サモア、アメリカに勝って、それまで7大会で1勝しか挙げたことがなかったブレイブブロッサムズは、一気にスポットライトの中の存在となった。
惜しくもノックアウトステージ進出は逃すも、同代表の帰国便はワイドショーのカメラに映し出され、空港は出迎えのファンでごった返した。そのとき起きた波が長く続き、さらに大きくなることはなかったけれど、次回大会、2019年のW杯が盛り上がる下地は作ったといっていい。
あれから10年が経った。桜のジャージーが8強入りをした2019年大会からも5年以上の年月が過ぎ、日本ラグビーは、強い日本代表が再びムーヴメントを起こしてくれることを求めている。
その日を迎えるためにも、南アフリカ撃破がどのようにして起きたのかを、当事者たちの記憶をもとに掘り起こしておきたい。
奇跡か、必然か。
「ブレイブブロッサムズ、南アフリカ撃破」のビッグニュースを現実のものとするための準備は、2012年12月3日から始まった。
その日の15時(現地時間)から、ロンドンの近代美術館『テート・モダン』ではプール組分け抽選会が開催され、日本は南アフリカ、スコットランド、サモア、アメリカと同じプールBに入ることが決まった。
ラグビー界の巨人と言われる相手との対戦が決定して以来、チームを率いるエディー・ジョーンズ ヘッドコーチ(以下、HC)の頭の中は、勝つためにはどうすべきか、どんな準備をするのか、選手たちにそれらをどう落とし込んでいくのか、勝利への絵を描くことでいっぱいになった。
あの一戦は『ブライトンの奇跡』か『必然の勝利』か。CTBで先発した立川理道は、自分たちが歩んだ道を回想し、誠実に答えた。
「対戦が決まってから緻密に準備を重ねてあの試合を迎えた。勝つための準備をして挑んだ試合で勝てたという意味で、偶然や奇跡ではないという認識です」
ただ、「一歩引いた目で見ると」と前置きして続ける。「あれだけ完璧なゲーム運びをして、最後にああいう展開に持ち込み、さらに勝利できた。50試合、100試合戦ってあるかどうか分からない(最高の)1試合を、あの日に持って来られたようなもの。そういう観点から言うと、“奇跡”に近いのかもしれません」
「準備も(勝つためのプランの)遂行力も完璧。そうできたのも奇跡的かもしれないし、それでも勝てないときだってありますから」
相手を分析し、自分たちのやるべきことをやり尽くして迎えた試合は、キックオフ直後から思っていた通り、見たことのあるシーンばかりだったという。
例えば前半6分頃、スクラムからの3次攻撃でFB五郎丸歩がラインブレイクして前進、その直後、PGで先制するシーンがあった。
「相手のディフェンスがどう動いて、そこが空くと分かっていました」
相手を丸裸にできていた。
「(頭に入っていた事前情報と)違うと思ったのは、相手のメンバーぐらいでした。ナンバーエイトのフェルミューレン、ハーフのデュプレア、10番のポラード、FBのルルー(らレギュラークラス)が出ていませんでした。もちろん、(あの日先発で)出ていた選手たちも素晴らしいんですけどね。ただ、こちらがやることに変更はなかった」
この試合に向けての対南アフリカ用の練習は「BEAT THE BOKS」と名付けられていた。概念は、「カオスの状態を作り出し、アンストラクチャーの中で自分たちのストラクチャーを作り出して攻める」。その練習を繰り返した。
日々のトレーニングは試合よりきつかった。
「混沌とした状況に引きずりこむ。南アフリカ相手にだけは、どんどんキックを蹴ってうしろに下げる。ボールを手放して、ディフェンスでプレッシャーをかける。そして、相手が蹴ってきたら(アンストラクチャー状態の中で)攻める」
練習の7割は15対15で攻め合い、守り合うスタイル。その途中、ジョーンズHCがボールを投げ込んで新たな攻防が始まる。トランジションにチャンスあり、と考えた。休みなく動き続け、判断を繰り返す過酷な練習の毎日に、ついて来られない選手もいたし、(対応できず)脱落する選手もいた。
当時の心境を思い出して立川は、「勝つための練習とは分かっていても、本当にこれで勝てるのかな、と不安になることもありました」と話す。
「ただ、以前にワールドカップに出たことがある選手たちはいましたが、そこで勝った経験のある選手がいない。エディーさん以外に、ワールドカップで勝つとはどういうことか知っている人はいなかった。だからついていくしかなかったし、ついていけば勝てるんじゃないか、という希望しかなかった」
日本代表が低調な成績に終わった2011年W杯の翌年、2003年大会で豪州代表HCとして準優勝し、2007年大会では優勝した南アフリカ代表のアドバイザーを務めた実績のあるジョーンズHCによる体制がスタートした。
当時自分たちがいたポジションを立川は「それ以上に下がることはない位置にいたと思います」とした。初年度はアジア相手には勝つが、パシフィックのチームには惜敗で3連敗。しかし秋の欧州遠征ではルーマニア、ジョージアに僅差で勝った。
そして2年目の2013年にウェールズに勝ち、その翌年はイタリアからも勝利を得た。
「そうやって少しずつ自信を積み重ね、その力を一気に発揮したのがあのワールドカップでした。長期的なプランを立て、準備をやり切った」
徹底してやり抜いたからこそ
10年前のこの一戦に関して、周囲からの呼びかけや誘いがない限り、「自ら引き出しを開けることはない」と言う立川だが、会話を重ねていくうちに様々な記憶がよみがえった。
例えば自分自身の起用について。2015年は春から10番を任されることが多かった。小野晃征のコンディションが不安定なこともあった。W杯直前の9月5日、キングスホルムでのジョージアとのウォームアップゲームでも、10番を背負ったのは自分だった。
その試合の出来はあまり良くはなかったけれど、それまでのことを考えれば、南アフリカ戦にも先発できると思っていた。しかし試合まで1週間を切る中での練習で、自分は先発が予想される選手たちとは別のグループに入った。指揮官からも「10番と12番のバックアップで」と説明されて、あらためてW杯で試合に出ること、結果を残すことの難しさを感じたという。
しかし、試合の2日前に12番予定のクレイグ・ウィングがアクシデントに見舞われる。そして翌日、立川のインサイドセンターでの先発起用が確定した。「急に緊張が高まった」と記憶している。
南アフリカ戦の後半28分、22−29の状況で得たラインアウトからのアタックへの絡みもおもしろい。日本は直前にLOトンプソン ルークがブレイクダウンでうまく相手の自由を奪い、PKを獲得。敵陣中盤で左ラインアウトを得た。
そこでSO小野が選んだアタックはサインプレー「府中12内」。ラインアウトからのボールを手にしたSH日和佐篤はフラットな位置の立川へパス、ボールは外に回り込む小野に渡る。小野は外でタテに走り込むマレ・サウにはパスせず、ショートサイドから内に走り込んできたWTB松島幸太朗にボールを託す。
滑らかに外へ走った松島は、タイミングよく顔を出したFB五郎丸へラストパスを送り、相手に指一本触れさせぬアタックは完結した。
立川は、「相手の動きを分析し、あそこにスペースがあると、沢木さん(敬介/コーチングコーディネーター)が考えたものでした。練習でもあそこまでうまくいったことはありませんでした。全員が同じ絵を見てプレーしたから、だったと思います」と言う。
自分から小野に渡ったシーンを説明し、「実はあの試合での僕の初めてのパスだったんです」と言った。
「68分までタテに走り、相手のSOに当たってばかりでした。急に出場したこともあり、僕の情報は相手に伝わっていなかったかも。パスができないと思っていたセンターが急にパスしたので、ディフェンスが乱れたのかもしれません」
そのとき相手の10番は、小柄なパトリック・ランビーから自分より大きなハンドレ・ポラードに代わっていた。サインプレーを仕掛ける10分前にそのポラードに当たった感覚が、それまでと違った。
「衝撃が強かったんです。それでコスさん(小野)に、『正直、あのSOに乗っかって前に出るのはもう難しい』と伝えたんです。それで、“府中12内”でいくことになった」
積み重ねてきたことを遂行し、ピッチの上で判断する。最良の選択ができるチームになっていた。
飛ばしパスではなく、最善のパス
逆転トライの5分ほど前、自陣で相手キックを受けてカウンター攻撃に転じ、敵陣に入り込んだプレーは繰り返し練習したものだった。
「無意識に体が動いていました。(途中出場の田村)優さんと味方バックスリーの横並びの位置に戻った。ボールをもらい、走りました。その時キックを蹴ったのは(SH)デュプレア。必ずそうしてくると思っていました」
最終盤の記憶も鮮明だ。WTB山田章仁に代わってカーン・ヘスケスがピッチに入った。左サイド、ゴール前でのマイボールラインアウト、スクラムと続いた場面。インサイドCTBの田村が、ヘスケスと松島にサイドを変えろと叫び、山田との交代で本来なら右に入るはずだったヘスケスが左に、松島が右に移った。
「ブレイクダウンでも働けるカーンをフォワードの近くに置くためだったと、あとになって理解しました。あの状況で、すごい判断ですよね。そしてその後、カーンがそっちのサイドでトライを取るんですから」
逆転トライは、左サイドでのトライライン前でのスクラムから始まった攻撃。右端まで運ばれたボールはSH日和佐の手からSOの位置に入っていた立川に渡り、NO8アマナキ・レレイ・マフィへ。最後はヘスケスがJP・ピーターセンの圧力を受けながらもインゴールにボールを置いて逆転のトライを決めた。
立川とマフィの間には2人の味方がいたが、迷わず飛ばしパスを放った。そのシーンを「僕にはマフィしか見えなかった。飛ばしパスではなく、最善のパス、です」と説明する。
南アフリカとの対戦が決まってから、チームでは飛ばしパスが禁じられていた。「南アフリカが相手なら、ウイングのブライアン・ハバナにインターセプトされてトライされる」と言われていた。特にSOでプレーすることが多い立川はパスが長い分、絶対にダメだと言われていた。
「練習でも、試合でも、特に僕には“飛ばすな”と言われていました。アジアのチーム相手に、これは絶対大丈夫というシーンに無意識に放り、トライになったこともあった。そしたら、“ひろせー”というエディーさんの声が聞こえた。控えだったトシさん(廣瀬俊朗)と交代させられました」
その徹底はいつの間にか、ベストなプレーを選択する力を養っていた。「飛ばし」ではなく、「最善」の判断を土壇場でした。
立川は、現在世界一に君臨する南アフリカに勝ったことは貴重な歴史も、決して過去に起こった奇跡で終わらせたくないと話す。
「あのときやれたのだから、これから先、もう勝てないというわけではないと思います」
「もう一度ああいう試合をやるための準備を(代表)チームや選手だけでなく、日本協会も含め、日本ラグビー全体で考えていかないといけない。あの時は15人制代表だけで盛り上がりが完結しましたが、女子もセブンズもひっくるめて、全体でもう一度ああいうことを起こせたら、子どもたちももっとラグビーをやりたくなる」
昨年の日本代表にも選出され、主将も任された。
「いまは成功した2019年の大会を知っている選手もいれば、2023年大会を知っている者もいる。エディーさんを信じるしかなかった2015年とは違って、チームの中にいろんな考えがあり、(いい結果が残らないいまは)以前より(ひとつになるのが)難しいとは思います」
だからこそ、「いまやろうとしていることをやり切るのが大事。そうしないと、レビューも反省も、改善もできない。やり切らないと(いまが)もったいない時間になる」と考える。
積み重ねがあれば、歴史が変わる日は突然訪れる。
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