高校ラグビーの智将、湯浅大智が崔皇鳳(ちぇ・ふぁぼん)に賛辞を送った。
「コンタクトも強いし、ワークレートも高い。スピードもあります」
万能選手として表現する。崔は大阪朝高の3年生。177センチ、94キロのFLである。
湯浅は44歳。東海大大阪仰星の監督だ。チームは冬の全国大会優勝6回を誇る。歴代4位タイの記録である。その目は肥えている。
2人の接点は大阪府の高校選抜チームでできた。湯浅はヘッドコーチ、崔は選手。通称「オール大阪」は今月開催の<わたSHIGA輝く国スポ>で8年ぶり18回目の優勝を飾る。決勝は福岡県に17-12だった。
崔は優勝を振り返る。
「めちゃくちゃうれしかったです」
眉は太く、目は澄み、その顔立ちは整う。若手俳優を思わせる。ラグビーという格闘技とは結びつきにくい。
崔は国スポで予選を含めた全6試合に先発した。準決勝の大分県戦で肩を痛めたが、決勝はパッドを入れて出場した。
「使ってもらってありがたかったです」
オール大阪にとって外せないピースだった。
崔はコンタクトに自信を持って国スポに臨めた。今年、ウエイトトレに集中する。
「結構、頑張りました」
ベンチプレスは最高を20キロ上回る120キロを上げた。大阪朝高ではFBの申友暻(しん・うぎょん)と共同主将をつとめる。
その大阪朝高の正式名称は<大阪朝鮮中高級学校>。5年前、東大阪の中級学校(中学)が統合され現校名になった。
「僕は在日4世です」
朝鮮学校は朝鮮半島に祖を持つ子どもたちが、北朝鮮や韓国の国籍に関わらず、民族学を軸に勉強する。校内では朝鮮語を使う。大阪朝高の創立は1952年(昭和27)だった。
ラグビー部の創部はその20年後。ジャージーはエンジと白の段柄だ。これまで冬の全国大会に11回出場した。直近は100回大会(2020年度)。4強戦で優勝する桐蔭学園に12-40で敗れた。4強進出は3回ある。
この競技を崔が始めたのは兵庫の尼崎ラグビースクールである。6歳、幼稚園児だった。
「お父さんに連れて行かれました」
父の聖浩(そんほ)は神戸朝高のラグビー部OBだった。崔は尼崎の初中級学校に通い、中学卒業までこのスクールにいた。
並行してNTTドコモ(現RH大阪)のアカデミーにも在籍した。高校は授業料免除での誘いも受けるが、大阪朝高を選ぶ。
「ラグビーは大阪朝高に行くためでした」
大阪朝高が初めて全国に出たのは2003年度の83回大会だった。この時は2回戦で正智深谷に24-40で敗れる。大阪朝高は崔が生まれる前から強かった。
崔の入学当時、校舎は東大阪にあった。通学はJRで立花から鴻池新田まで行く。そこから自転車を使った。
「母が道順を教えてくれました」
母の金聡淑(きむ・ちょんすく)も大阪朝高の卒業生だった。同じ道を通った。
大阪朝高にはあこがれの選手も在籍した。李承信である。リーグワンの神戸Sに属し、朝鮮学校出身者として初めて日本代表に選ばれた。主にSOとしてのキャップは25だ。
「僕らが力をもらっているスターです」
崔は李の7学年下になる。
李が3年間通い、崔が学ぶ大阪朝高は大阪の東成区に移った。今年6月、その新校舎の完成式があった。ラグビー部監督の文賢(むん・ひょん)は移転の理由を口にする。
「総合的判断によります」
文は37歳。世界史を教える教員でもある。
今の生徒数にも言及する。
「中学、高校ともに150人ずつくらいです。そのうち半数が女子です」
14年前、高校の生徒数は380人弱だった。ラグビーマガジンの付録、91回全国大会ガイドに載っている。今は当時の半分以下。そのことは授業料収入を低下させる。
大阪朝高は学校教育法が定める一条校ではない。各種学校になる。したがって、府が公立から私立に広げている授業料無償化の対象にはならない。授業料は年間50万円近く。ルーツか経済か、その選択は難しい。
生徒数はまた部員数に直結する。選手は22人、女子マネは2人。府総体(春季大会)の常翔学園戦は5-67で敗北した。
「最初は15人で最後は13人になりました」
次の3・4位決定戦はケガで15人がそろわず、東海大大阪仰星に不戦敗。府総体は安全面から1年生の出場が認められていない。
文は練習場の確保にも追われる。
「新校舎のグラウンドは人工芝ですが、縦は50メートルあるかないかです」
面積は狭い。統合により廃校になった中大阪の初級学校跡地に作られているからだ。そのため、生野の初級学校や鶴見緑地のグラウンドを借りる。移動はラグビー部所有のマイクロバスを使う。寄付されたものだ。
その状況下で、大阪朝高は11月2日、105回目の全国大会予選の初戦を迎える。2つ勝てば決勝戦に進出する。対戦相手は春の大阪王者、大阪桐蔭が濃厚だ。
「やられるのは仕方ありません。でも、何回も立ち上がって、やり切りたいです」
崔は決意を語る。
その後の進路は東京の朝鮮大学校を希望している。この大学で両親は出会った。ラグビー部は関東リーグ戦の2部に所属。創部は1968年だ。「朝鮮ラグビーの父」と呼ばれる全源治(ちょん・うぉんち)が作った。
「自分のためだけでなく、在日の人たちにも力を与えてあげられたらと思っています。それに、2個上の先輩方が優しくしてくれて、ほとんどの人がここに進みました」
崔は高校同様、ラグビー強豪大学からの誘いを断って、朝鮮大学校へ進むつもりだ。自分の役割を認識して、民族としての誇りを胸に臨む高校最後の大会はじき幕を開ける。
