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走れるプロップの転機。田代大介[明大/PR]

2025.10.26

パワフルなボールキャリーが光る田代大介(撮影:福島宏治)

 花園での活躍を光ったり、高校日本代表の肩書きを持っていたりと、エリート揃いの明治大学にあっては無名と言っていいかもしれない。

 少なくとも本人はそれを反骨心に変え、紫紺のジャージーを掴む原動力とした。

 田代大介。この秋の関東大学対抗戦の全3試合で、背番号1を背負った3年生だ。

「自分は高校ジャパンの候補にも入っていません。ボールキャリーでもタックルでも、荒削りなところはまだまだあります。でも、前に出るメンタリティーだけは絶対に負けたくないと思って過ごしてきました」

 180センチ、108キロの巨躯を生かしたボールキャリーを強みとしながら、高い運動量を誇る。
 チーム事情でLOも兼ねた高校2年時には、全国7人制大会にレギュラーで出場するほどの走力を有した。

 走れるプロップの原点は、中学まで続けた柔道にあった。

 幼少期から叔父が開いた道場、大刀洗(たちあらい)豪武館に通った。
「小さい道場でしたが、ガキの頃から死ぬほど走らされていました」

 昨年度に東海大を卒業した兄・諒介の影響で、小学3年時から約3年間は中鶴少年ラグビークラブにも在籍したが、あくまで「柔道のためのラグビーでした」。

 中学では柔道に専念。個人戦は県大会で「トチった」が、団体戦では全中で5位入賞を果たす。次鋒(二番手)を担った。

 その実績を持っていながら、高校では楕円球を追うと決めた。
 兄の試合を観戦していた際に、大分舞鶴の堀尾大輔監督(当時)から声がかかったからだ。

「もう一度、ラグビーをやってみないかと。柔道を続けるのが当たり前だと思っていたのですが、レールを外れるのもアリなのかなと思いました」

 ラグビーを再開した時点で、「トップを目指す」と決めていた。
 だから明大の門を叩いた。はじめは「すげえところに来てしまったな」と面食らったが、下級生時から評価は高かった。

 2年時の昨季は新チーム発足後の部内マッチで好アピール。春からAチームでの出場機会を得た。

 しかし、徐々に序列が下がっていった。結局、秋にはメンバー外に。同期の檜山蒼介、1学年上の伊藤潤乃助の後塵を拝した。

 決定打となったのはスクラムだった。夏の帝京大戦で「めちゃくちゃに押されました」。

 それが転機になった。
「高校の時から運動量を売りにしてやってきたけど、大学レベルではどれだけ走れて、どれだけフィールドプレーが良くても、スクラムが強くないと試合には出られない。その厳しさを痛感しました」

 課題に目を向け、滝澤佳之コーチと日々、修正を重ねた。
 リーグワンのクラブの練習に参加し、引き出しも増やせた。

 その成果を出せた。今春はAチームやジュニアの試合を行き来したが、6月下旬の大東大戦以降はほとんどの試合で先発。夏の最後には”テスト”があった。

 1年前に苦杯を舐めた帝京大との一戦が、今夏もあったのだ。
 トイメンの3番は森山飛翔。日本代表スコッドにも名を連ねたことのある実力者だ。

「緊張しないタイプなのですが、初めて緊張しました。試されていると分かっていましたし、そこでどれだけできるか。レフリングと少し合わないところもありましたが、手応えを感じました」

 果たして秋もレギュラーを勝ち取り、10月26日の立教大戦も背番号1のジャージーを託された。
 毎週、福岡から試合会場に駆けつける家族のためにも、好パフォーマンスを披露したい。

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