インタビューが始まる前も、その最中も、終わったあとも、謝罪の言葉が何度も口をついて出る。
「うまくしゃべれなくて、すいません」
実際は、本人の認識とはまったく異なる。
回答は明確で理路整然。喜怒哀楽を含んだ状況の説明もよどみがなく、聞き手が混乱したり、意図が不明瞭で理解できないところはひとつもない。
むしろ実直な性格そのままに素直に答えてくれる分、話がスッと入ってくる。
最上級生になって一気に頭角を現した、紫紺のロック菊池優希。「自分はまだまだ全然です」と、どこまでも謙虚だ。
しかし選手である以上は当然、「試合に出たい」という欲や野心を抱く。それを現実にするために「見られ方」を意識した。
「パフォーマンスを上げて信頼されるためには、自分がどう見られたいか、見られるべきかが大事だと思いました。『隣でディフェンスしていても、こいつには安心して任せられるな』とか、『チームをよく引っ張ってくれている』とか。そういう信頼を得ないと、試合に出ても仲間を不安にさせてしまうので」
自覚ある行動が結果に結びついた。
春は同志社との定期戦、京産大との招待試合を含めてAチームの7試合すべてにメンバー入り。夏合宿の練習試合では、天理、京産大、帝京と3つのゲームでスタメンの座を勝ち取った。
鮮烈な印象を残したのは、8月24日におこなわれた帝京大戦。チームがシーズンの先を見据え、「必勝」をテーマに掲げた重要な一戦において、4本のラインアウトスティールを成功させた。
それほど念入りに準備を施したわけではないが、菅平に入り、筑波、天理、京産大とゲームを重ねるうちに相手のラインアウトに対する反応がFW全体でよくなっていった。菊池以外にも最上太尊など競り合えるメンバーがそろっていたのも大きい。そして結果的に「取らせたくないエリアでうまくハマった」。
スクラムは劣勢。スコアも終始リードされる苦しい展開。それでも最後は1トライ1ゴール差(21-28)まで肉薄できたのは、王者のスローワーやジャンパーにプレッシャーをかけ続けたからだ。
さらにチーム3本目のトライまで奪う「おまけ付き」だった。きっかけはルーキーのフルバック古賀龍人のビッグゲイン。ボールをもらってスコアを動かすまでのシーンを次のように振り返る。
「(パスを受けたあと)一回ダミーしたんですけど、相手がこちらに寄ってこなかった。それで前が空いていたので。その前の過程がよくて、一人ひとりがオプションになってアタックできたのは手応えがありました。最後はたまたま自分がトライしただけなので…」
一貫して慎ましい菊池がラグビーと出会ったのは小学校3年生のとき。地元の山形ラグビースクールに通っていた兄の友人が、恵まれた体格を見込んで誘ってきた。
「『体、大きいね。何してるの?』って聞かれのたので、『公文、行ってます』って。ほんとにそうだったんで」
それまでスポーツ経験はほぼ皆無。サッカーを多少かじってはいたが、厳しいコーチの態度や練習の雰囲気になじめず、少年の足は自然と遠のいた。「泣き虫で、ちょっと根性のない感じ」と当時を振り返って自虐するが、楕円球の指導者たちはやさしく、なにより菊池自身がラグビーに向いていた。
同級生と比べてがっしりしている分、力も強かった。たとえば、鬼ごっこ。自分では軽くタッチしたつもりでも、友人たちは吹っ飛んで転んだ。悪気がないだけに、余計に気持ちのいいものではない。
「『あー、ごめん』みたいな感じで、力の制御が難しかったですね。だからラグビーはぴったりかな、と」
気弱でやさしい少年は、じつは芯がしっかりと太く、強い忍耐力を持ち、ありていに言えば根性がある。つまりはラグビー、ひいては背番号4と5に向いている。
この心身のタフネスを生かして、いくつもの苦境を乗り越えてきた。
山形一中を経て進学した山形中央では1年時からレギュラー。ただし部員は20人前後、入部時点で180センチ、73キロの競技歴7年の経験者は即戦力だった。
そして初めての全国高校大会。花園の第1グラウンドでおこなわれた報徳学園の初戦に惨敗した。スコアは5-162。勝者にとっては大会史上最多得点であり、菊池たちにとっては史上最多失点。はずかしかった。
「チームが何もできずに最悪の結果を出して、何をしてたんだろうって。県の代表として出たのに、山形の人に顔向けできない。本当に悔しすぎました。それなのに(スタンドからは)いっぱい声をかけてくださって。だから絶対に変わらないとダメだな、と思いました」
下級生を中心に同じ気持ちの選手が何人もいた。試合終了直後、数人と目を合わせただけで、それがわかった。新チーム始動から練習への意識、態度は一変。新型コロナウイルス蔓延の影響もあったが、個人でのトレーニングも怠らなかった。
2年時の部員数はわずか17人。実戦に近い練習もままならない。それでもディフェンスを徹底して鍛えあげた。モールを含めてセットプレーも試行錯誤を繰り返し、「本当に勝てる自信しかない」と言い切れるほど鍛錬を重ねた。
しかし世間の目は厳しい。北北海道代表の旭川龍谷を相手にした花園初戦を前に、インターネットには「山形中央が負ける」との意見が多勢を占めた。前年の大敗が尾を引いていた。それでも菊池は冷静でいられた。
「『やっぱり、そうか』くらいの感じでしたね。ただ、見られ方を意識するようになったのは、このときからですね。チーム自体もそうですし、チームのなかでも自分の立ち位置や、自分がどんな存在なのかを気にするようになりました」
いまにつながる意識の変化が奏功してか、山形中央にとってファイナルとも言える勝負を15-0で制した。そして貴重な時間となった高校3年間を次のように振り返る。
「無失点に抑えられたのが大きかったですね。どん底から次の年に勝って、チームの雰囲気や練習態度も変わった。自分自身も1年生の時に比べて体を大きくしました。(報徳学園に負けて以降)他人に見られない努力を人一倍やった自信はあります」
3年生の花園出場時は身長186センチ、体重102キロ。大学4年のいまとほぼ変わらない肉体を作りあげた。
明治との接点が生まれたエピソードにも菊池優希という人間がよく表れている。
高校3年進級を目前に控えた時期、山形中央の監督を通じて、「フィットネス練習に参加してみないか」と声をかけられた。相当にハードなメニューだとは聞いていたが、「行きません」とは言えなかった。
記憶にある限りで、実際におこなわれた内容は以下の通り。
22メートルダッシュを往復10本。ワニなどの動物の動きを模した練習に加え、タックルバックに幾度となく体を当て続ける。タッチフットのようなボールゲームで息をあげるメニューもあった。また300メートルのランを6本こなしたあと、100メートルをダウン走と全速力で繰り返す練習が5本。
体はカラカラになりながらも、持ち前の体力と気力で乗り切った。
すると、ほどなく、当時の田中澄憲監督に「よろしくね」と言われた。過酷なメニューをやり遂げた17歳に届いた合格通知だった。
明治に入学後はケガに悩まされた。高校時代から続く、いつ完治するとも知れない肩の大ケガに加え、アキレス腱の断裂にも見舞われた。思うようにプレーできない、チームの力になれない悔しさに心を痛めたが、神鳥裕之監督の「逆境を楽しめ」という言葉に救われた。
「ちゃんと見てくれている人がいるんだと思うと同時に、本当にがんばらないといけないな、と。採ってもらった以上、最後までがんばるのが自分の使命だと思いました」
体に大きな不安がなくなった昨季、地元の山形で開催された慶應との招待試合で、初めて紫紺のジャージーに袖を通した。ゲームの前は異様な緊張感に襲われたというが、実際にグラウンドに立つと、それほど悪くないと思えるプレーができた。
試合後には当時のキャプテン木戸大士郎(現BL東京)から、モールへの入り方や、試合中のマインドに対してフィードバックを受けた。その前主将を菊池は心底、尊敬している。
「自分のこと以外も気にかけてくださって、幹部だからといって態度が大きくなるわけでもなく、私生活を含めて当たり前のことを徹底していました。誰からも後ろ指を刺されず、小さなところまですごいと思える人だったので参考にしていましたし、自分も4年生になったときには見習う部分が多いと思っていました」
実際、菊池はこの春シーズンのMVPに選出された。その大きな理由のひとつが、1年生に対する態度や向き合い方だった。
「大学生のラグビーは、高校生までとは違います。下級生のころは大士郎さんや嶺二郎さん(山本/BR東京)が自分に教えてくださって、すごく助かりました。4年生はそれなりに余裕があると思うので、そういう(後輩が)聞きやすい雰囲気を作っていけたらな、と思っていました。それで、みんなの理解度が上がれば、チームのレベルも上がるので」
さて、先日の筑波との開幕戦。心やさしいロックは5の背番号が縫い付けられたジャージーを身にまとった。4年生にして、初めて立つ対抗戦の舞台だった。結果は痛恨の逆転負け。自身のデビュー戦を白星で飾れなかった。
夏合宿で明確な手応えを得たラインアウトでプレッシャーをかけられ、ミスを連発。敗因のひとつとなった。
「どこでも跳べるようにサインを考えていて、そのサインでは(ボールを)取れました。でも相手に自分たちのコールを真似されたり、(相手の)ミラーディフェンスや反応もよかった。フッカーとのボールが合わなかったのも大きかったですね」
今季のラインアウトリーダーを務める小椋健介とは、試合直後すぐに言葉をかわした。
「(サインの)チョイスやクオリティはロック陣でしっかりと話し合って、これからまた取り組んでいこう、ということになりました」
建て直す自信は? と問えば、「はい。いけます。大丈夫です」と即答。そう言うと決めていたような、はっきりとした口調だった。