「破天荒なやつがチームには必要なんだよな。優勝しようと思ったら。そういうやつは扱いにくい。言うことを聞かないし、好きなことをしだす。でもな、膠着した局面を打ち破ってくれるのはそういうやつなんだよ」
はてんこう=今まで誰もしなかったことをすること。広辞苑(岩波文庫)には書かれている。話者は河原井正雄。ラグビーではない。大学野球の指導者だった。
河原井は監督として青山学院を初めて日本一にさせた。全日本大学野球選手権の初優勝は1993年、42回大会である。在任中には合計4回、頂点に立った。
教え子は多士済々だ。42回大会の主将は小久保裕紀。ソフトバンクの現監督で、2041本の安打を放ち、名球会入りしている。1年生で遊撃を守ったのは井口資仁(ただひと)。千葉ロッテの元監督である。現役では石川雅規がいる。プロ25年目のヤクルトの小さな左腕は通算188勝を誇る。
河原井の言葉は今でも忘れない。破天荒をあえて意訳すれば、その競技における「天才」というところだろう。
破天荒な選手がすべて扱いにくいわけではない。ただ、一芸に秀でたものは他者とは違う。だから、優れる。「クセが強い」という表現は、破天荒にこそ当てはまる。
明治のラグビーはまた、破天荒な選手の歴史、だと私は思っている。大学選手権の優勝は13回。これは帝京と並び歴代2位である。1位は3回多い早稲田だ。
明治が大学選手権で優勝する時、破天荒な選手たちが突破役になった。思い浮かぶのは森重隆、松尾雄治、河瀬泰治、吉田義人、元木由記雄らである。
破天荒にほかの選手は続く。ラグビーの場合は、繰り出されるプレーを想像して、反応できるようにする。15人の総和として、相手を驚愕させられれば、道は開かれる。
その選手たちを見極めて、起用したのは67年にわたり、監督をつとめた北島忠治である。破天荒な選手たちに対して、細かいことは言わなかった、と聞いている。「前へ」に代表されるその指導哲学も短い。北島には彼らを大きく包み込む、器(うつわ)があった。
明治の直近の選手権優勝は2018年度の55回大会である。LOに箸本龍雅、FBに山沢京平がいた。彼らはまだ2年生だった。最終学年ではコロナが世界を襲う。満足な練習ができない一年になってしまった。
この2018年度はSH主将の福田健太と監督の田中澄憲(きよのり)がチームをまとめた。箸本と福田、それに田中の3人は今、東京SGにいる。田中はチーム二番手のGMだ。山沢は埼玉WKに籍を置いている。
明治には今、3年生に伊藤利江人という選手がいる。名は「りえと」。イタリア語のlieto=幸せ、からとられた。父の宏明がこの国で1年間、プレーしていた。
利江人の体格は173センチ、78キロ。兵庫の報徳学園から入学した時、ポジションはSOだった。これまで、高校日本代表やU20日本代表を経ている。
私が初めて利江人を見たのは高1の時だった。SOとして、飛び跳ねるようなステップや相手の虚をつくパスなどに目を奪われた。ラインを統率する。のちに少し話をするが、素直で真面目な感じがした。
同じようなステップが印象に残っているのはSOのクウェイド・クーパーだ。オーストラリア代表キャップは76。あるいは利江人は真似たのかもしれない。クーパーは16歳上の37歳。すべては真似から始まるが、仮にそうとしても利江人の能力の高さがわかる。
クーパーは花園Lで昨季、現役を終え、そのままアタックコーチについた。若かりし頃の異名は「悪童」。近鉄ライナーズとの契約時には、ボクシングの試合出場を希望したこともあった。住まいもグラウンドのある東大阪でなく、若者に人気があり、にぎやかさが増した堀江を選んだ。個性豊かである。
そのクーパーと同じくオーストラリア代表だったSO、バーナード・フォーリーとの比較を伊藤父はしたことがあった。
「クーパーを10とするとフォーリーは7くらいではないかと私は思います」
クーパーを破天荒と見ているのだろう。
フォーリーはクーパーのひとつ下で、S東京ベイに所属する。36歳。代表キャップはクーパーと同じ76。ほぼ変わらない。伊藤父も同じSOで日本代表キャップ2を得た。明治のOBでもある。1997年度の卒業だ。
利江人に東京の千歳中から報徳学園の進学をすすめたのは父である。
「楽しそうにラグビーをしていました」
出身者にそういう印象を持った。明治のコーチ時代である。今はRH大阪のアシスタントコーチをつとめている。
報徳学園の監督は西條裕朗である。62歳。この高校から法政を経て、教育の道を歩む。監督と社会科教員として母校に戻った。
「あの人は選手が育つ邪魔をしないよね」
これは藤島大の評である。藤島の破天荒な文章に対するファンは多い。
利江人は西條の下、のびやかに育った。仲間たちはそのランニングやパスを理解するようにつとめる。高校最後の冬の全国大会は102回(2022年度)。赤黒ジャージーは初の決勝に進出する。1952年(昭和27)の創部から71年目だった。定期戦を組む東福岡には10-41と敗れたものの、新しい歴史を作り上げた。
西條は河原井と同じ、<具眼の士>であると言えよう。