2024年は良きシーズンにできた。前年のWXVではメンバー落ちを経験。サクラフィフティーン不動のCTB、古田真菜は悩んでいた。
「もっと高いレベルでプレーしたいけど、そこにいけていない自分とのギャップに焦り、パフォーマンスも上がらない時間がありました」
年末の時間を使い、自分を見つめ直した。「伸ばせることを具体的に探してみたら、意外とたくさん見つかったんです。そこにアプローチしようと」。
マインドも変えた。
「小さな目標もたくさん設定して、それができたら自分を褒める。合宿で本当に身体がきつい日は、朝起きれただけで自分、偉い! と思うようにしました」
復調できた。2024年のテストマッチは全試合に出場、格下と戦うアジアチャンピオンシップ以外はすべて先発した。
「成長できたことも多くて、楽しく過ごせました。もっと成長したいと思ったし、W杯でベストな自分でいたいという思いが強くなりました」
最近では強みのディフェンスにさらに磨きをかけている。自主練では長田いろはに教えを請い、スティールのスキル向上に励む。
「良いタックルはできつつありますが、その後にプレッシャーをかけたり、スティールまでできるようにしたいです。取り返してようやく、チームへの貢献だと思っています」
両親や兄の影響で2歳から楕円球を追った。父の仕事もあって愛知の一宮ラグビースクールで約3年、大阪の寝屋川ラグビースクールでも約3年過ごし、以降は福岡のかしいヤングラガーズに在籍した。
ここで野田夢乃(元日本代表)と出会っていなければ、いまの古田はいない。
「私が夢乃をラグビーに誘ったのですが、小学生までで辞めようと思っていました。でも夢乃は当たり前のように続けるでしょ、という感じで。それで自分も続けました」
筑紫高校では、2学年上の南早紀と伊藤優希(ともに元日本代表)に努力とは何たるかを学んだ。
「早紀さんは男子に負けないぐらいウエートが強かったですし、コンタクトもガツガツいっていた。優希さんも練習とは別にランニングもしていて。2人にとって当たり前の努力を全然してこなかったので、間近で見られたのは大きかったです」
代表で初キャップを得た2016年は、SOでの選出だった。「いまは面影がほぼない」と自虐するも、2019年にレスリー・マッケンジーHC体制となった当初もそれは変わらず。しかし立正大4年時の秋に突然、「今日から13番」と告げられた。
「やってみたらすごく楽しかったんです。タックルも、(カットインして突破を図る)ショートも、自由に動いていろんなところで繋ぎ目になれるのも面白いなと」
ただ、CTBで生きた武器のハードタックルは、もともと得意ではなかった。転機となったのは、中学時代にコーチから授かった金言だ。
「50㌔の鉄の塊がゆっくり向かって来るのと、速く来るの、どっちが嫌かと。ちょうど当時の体重は50㌔で、その言葉がすごくヒットしました。自分が速く来られるのが嫌だと感じるなら、みんなも嫌かもと」
大学1年時の2016年と2020年に経験した、2度の前十字靱帯断裂も糧にした。どちらもタックル前のトラッキングでの負傷だった。
「いろんなコーチにタックルまでの動きを教わりました。社会人になって、ようやく掴めたと思います」
自身2度目となるW杯では「本当に結果を残したい」。タックルでチームを救い、繋ぎ役としてアタックを牽引する。
(文/明石尚之)
※ラグビーマガジン9月号(7月25日発売)の「女子日本代表特集」を再編集し掲載。掲載情報は7月15日時点。