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【ラグリパWest】教え始めは母校から㊦。内田啓介 [京都市立京都工学院高校/保健・体育教員/ラグビー部コーチ]

2025.04.28

この4月1日から母校の京都工学院の教員とコーチになった内田啓介。埼玉WKの現役時代、SHとして突破を試みる。日本代表キャップは22。右後方に映るのはチームメイトだったマリカ・コロインベテ。オーストラリア代表キャップ63を持つWTBである(撮影:高塩隆)

 内田啓介は伏見工で3年間を過ごした。

 この京都市立の高校は9年前、洛陽工と統合され、京都工学院になった。内田は4月1日からここで保健・体育教員とラグビー部のコーチを兼務している。

 高校1年時、SHの内田はメンバー外ながら、冬の全国大会を経験する。この大会は開催される花園ラグビー場から「花園」と称される。伏見工は準優勝。87回大会(2007年度)の決勝は東福岡に7-12だった。

 2、3年時は府予選決勝で京都成章に敗れた。内田が花園の芝生を踏むことはなくなった。
「この2年間は喪失感が大きかったです」
 その感覚は内田のバネになる。

 日本一4度。パナソニック、今は「埼玉WK」と短く称されるチームで、トップリーグとそれに続くリーグワンにおいてだった。
「勝つことがすべてではありません」
 今はそう言える。高校の一時期だけを切り取るのはナンセンスということを知る。

 花園にこそ届かなかったが、高校日本代表には選ばれた。3年間、朝6時30分から45分間、パスなどの個人練習を続けた。そのあと、7時15分からの全体練習に臨む。
「過酷でした。でも人がやっていない時にやらないとうまくなりません」
 起床は毎朝4時30分だった。

 内田が在籍した伏見工のラグビー部の創部は1960年(昭和35)。15年後、保健・体育の教員でもある山口良治が監督に就任する。山口は日体大出身で、FLとしての日本代表キャップは13を得ていた。

 山口はカリスマさと猛練習により6年で全国制覇に導く。60回大会(1980年度)の決勝は大阪工大高(現・常翔学園)に7-3。HB団は高崎利明と平尾誠二。SHの高崎は内田の高校3年間の監督だった。SOの平尾は後年、「ミスターラグビー」と呼ばれる。

 その60回大会を皮切りに伏見工の花園優勝は歴代6位タイの4回。京都工学院になって初の花園出場は前回の104回大会。3回戦で國學院栃木に5-21で敗れた。チームとしては9年ぶり21回目の出場だった。

 内田は大学進学を筑波に定めた。
「教員になりたい気持ちが強かったです」
 筑波の祖は東京高等師範。1886年(明治19)に国が最初に設立した中等教員の養成学校である。いわば教員を作る本流だった。

 ラグビー部の創部は1924年(大正13)。教員養成という主目標により、学生の主体性に軸足を置く。そのため、歴史的に学生が中心になってチームを運営する。

 高校時代の朝練習でもわかるように内田は自律ができた。それでも驚きはあった。
「年間スケジュールを自分たちで決めました。練習試合の相手や合宿の日程も含めてです」
 当時の監督は古川拓生。内田はターゲットを持って生きることを学ぶ。

 その指導がはまる。内田の3年時、関東対抗戦で初優勝。大学選手権でも初の決勝に進出した。49回大会(2012年度)は帝京に22-39。帝京は9連覇の4回目だった。

 SHで先発した内田は振り返った。
「あの時は筑波史上最強だったと思います」
 ひとつ上に彦坂兄弟(WTB匡克とHO圭克)がいた。この2人はトヨタ自動車(現・トヨタV)にゆく。1年生WTBは福岡堅樹。福岡はパナソニックでもチームメイトになった。日本代表キャップは38を獲得した。

 この3年時、内田は初めて日本代表キャップを得る。4月28日、アジア5カ国対抗のカザフスタン戦だった。後半21分、藤井淳(現BL東京アシスタントGM)と交替する。試合は87-0。ヘッドコーチはエディー・ジョーンズだった。今、2期目をつとめている。

 その筑波から進んだパナソニックには11年間在籍した。選手としてトップリーグとリーグワンで10シーズンを過ごし、4度の優勝と3度の準優勝を経験した。日本を本拠地にしたスーパーラグビーのサンウルブズには2017年から3シーズン参加した。

 筑波で日本代表に入ったことで、教員になることは先延ばしにする。パナソニックを選んだのはSHとしての挑戦だった。
「フミさんがいました」
 伏見工の7学年先輩、田中史朗(ふみあき)は同じポジションだった。

 日本代表のキャップ数は内田の22に対し、田中は75。ともにその数は確定した。
「結局、抜かせられませんでした」
 ゲームコントロールやコミュニケーションといった単語が内田の口からは出た。この敗北感は高校時代の選手としての花園不出場と同様、内田に指導者としての厚みをつける。

 パナソニックではロビー・ディーンズとの出会いがあった。
「自分にとっては、ヘッドコーチ(監督)であり、教育者であり、哲学者です」
 ディーンズはキウイながら、隣国で宿敵でもあるオーストラリアの代表監督をつとめた。凄味がある。パナソニックの監督には内田の入団と同じ2014年度についた。

 忘れられないディーンズの言葉がある。
「コントロールできることだけに集中しろ。ラグビーも、人生も。コントロールできないことに目を向けると悩む、前に進めない」
 伏見工時代の朝を例にとると、個人練習はコントロールできる。全体練習はできない。そのことをより強く刻みつけられる。

 そのディーンズをトップに抱き経験した4度の優勝。最後は2022年だった。
「めちゃめちゃうれしかったですね」
 リーグワンの初年。プレーオフ決勝で東京SGを18-12で降した。内田は先発している。

 現役引退は昨年5月。その後はチームのアシスタント広報を経て、4月1日から京都工学院に着任した。
「1年生を集めて言いました。うまいやつは出られる、アピールしろ、ってね」
 社会人のトップでの経験がにじむ。

 チーム目標を言う。
「日本一です」
 自分が高校時代に成しえなかった高みに後輩たちを押し上げてゆきたい。これまでの喜びも悔しさもすべてを糧として、これからは高校生に向き合ってゆく。

教え始めは母校から㊤㊦完)

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