ラグビーリパブリック

早大ラグビー部は家族の憧れ。自宅通いの山下恵士朗、走りをアピール。

2025.04.22

早大上井草グラウンドで取材に応える山下恵士朗(撮影:向 風見也)

 満足できなかった。

 早大ラグビー部2年の山下恵士朗は、4月20日、都内にある自軍のグラウンドで関東大学春季交流大会・Aグループの初戦にWTBで先発。6日にあった中大との練習試合で好アピールができ、チャンスを掴んだ。

 この日も鋭いタックルを重ねた。攻めては大外で球をもらいながら内側へステップを切り、タッチラインの外へ出ずに首尾よく球を活かすことがあった。

 もっとも本人は、「タッチ(ラインの外)に出るのは一番いけないことですが、自分をアピールするには(外側へ)勝負してもよかったと思います」。口を突くのは反省点だった。後半26分までピッチに立ち、大東大に57-26で勝利後に言った。
 
「もっと自分でボールを呼ばないといけなかった。パスが回ってきた時にもスペースがあまりなく、強みを活かせなかった」

 自分の可能性を信じる。身長170センチ、体重71キロで、好きな選手はチェスリン・コルビだ。自身のように小柄ながら南アフリカ代表となった31歳を、「ステップもキレキレで、力もある。(コルビのように)なりたいです」と見る。

 東京で産声を上げた。楕円球との出会いは4歳の頃だ。

 生まれた頃にはすでにこの世にいなかった祖父が、早大ラグビー部の大ファンだった。その意を汲んだ母の願いで、当時住んでいた兵庫県の芦屋ラグビースクールへ通い始めた。すぐにこのスポーツの虜になった。

「大学生になって思うのは、自分に一番、合うスポーツはサッカーでも野球でもなくラグビーかなと。他のスポーツにないコンタクトが好きで、アタック、ディフェンスのどちらもでき、走ることもできる。身体の全部を使える。やってよかったです」

 3年時に東京の学校へ転校すると、親戚筋を通してワセダクラブに転籍した。早大と繋がるこのチームには早大OBの津金崇仁郎コーチがいた。

 学生時代の津金コーチのチームメイトに、元コカ・コーラ主将の山下昂大がいた。2021年、早稲田佐賀高へラグビー部を新設。初代監督となった。長らく佐賀工がリードしてきたこの地のラグビーシーンに新風を吹かせるべく、向上心と技能のある少年をスカウトしていた。

 ちょうど進路を考えていた恵士朗は、津金の電話越しに指揮官のラブコールを受けた。親元を離れ、創部1年目のクラブの1期生として貴重な体験を積むこととなる。

「新しい子を誘う、初心者を強くするという、他のどこ(の強豪校)へ行っても味わえない経験ができました。最初はグラウンドもなかったので、自転車で色々な場所へ出かけていました。海も近かったので浜で練習することもあり、楽しかったです」

 当初は試合ができるぎりぎりの人数も、最終学年時は約30名で動けるようになった。ワセダクラブから挑戦してきてくれた後輩たちのおかげだ。

 一度は秋の県大会でライバルを倒し、東大阪市花園ラグビー場での全国大会に出たかった。しかし佐賀工の同級生には、強者が揃っていた。

 ルーキーイヤーから躍動したのはCTBの大和哲将(現明大)、現SHで当時FBの井上達木(現筑波大)。2年生になると、ここに司令塔のSOの服部亮太が加わった。いずれも後に高校日本代表となった。

 越えたい壁の険しさに脱帽の山下少年だったが、いまは、佐賀工の服部と仲間になった。この春、同じフィールドに立つことで成長を実感できた。

「亮太の考えているラグビーのレベルが高い。長いパス、キックが、他のSOにはない動作から来る。服部亮太というSOに合わせていかないと。ついていくのは難しいですが、わからないことがあれば的確に教えてくれる。叱られながらも、服部のニーズに応えられるようにしたいです」

 早大では主力組に絡めば、拠点敷地内の選手寮に住める。そうなればトレーニング場は目と鼻の先になり、毎日バランスの取れた食事を口にできる。しかし山下は、以前あった入寮の打診を辞退したことがある。

 いまの実家が活動場所の近くにあり、2学年上でFLの広一朗とともにそちらで暮らしているのだ。

「家でしっかり睡眠を取りたいと思い、いまは(自宅から)通わせてもらっています。それと、プライベートがあったほうが勉強もしやすいかなと。(チームへコミットする観点から)悩ましいところではありますが、まだ2年生なので色々と考えたいです」

 皆とのラグビーの時間も、ひとりでいる時間も大切にする。激しい定位置争いへ、「高校時代の高いレベルでの経験が、他の選手と比べて少ない。もっと高いレベルに慣れていかないと」と意気込む。

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