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【ラグリパWest】ラグビー精神とともに。中村隆元 [中村工業株式会社/代表取締役、中村学園三陽高校ラグビー部OB]

2025.02.25

創業120年を誇る中村工業の中村隆元代表取締役(左)。会社は高所作業の鳶からスタートして、今では5大ゼネコンすべてから受注を受けるサブコンに成長する。右は中村工業に在籍してナナイロ プリズム福岡でプレーする迫田夢乃。迫田はナナイロカップで初優勝を飾り、中村代表はピッチ上で祝福を送った。中村代表も高校の3年間、福岡の中村学園三陽で楕円球を追った

 中村工業の祖となる中村重吉(じゅうきち)は28センチ榴弾砲を旅順に運んだ。

 その血筋で5代目の代表取締役となるのは50歳の中村隆元(りゅうげん)だ。
「重吉さんは、その仕事をしていた、と聞いています」
 203高地から発射された砲弾は港内のロシア艦隊を無力化させた。

 その日露戦争が終わった翌1906年(明治39)、重吉は高所作業のプロ、鳶(とび)の仲間を束ね、福岡において前身の中村組を興す。それから120年が経った。

 中村工業の業務は鳶を含めた土工、土木が軸になる。一般的に土工は人力作業、土木はその工事全体を指す。今は建物の改装、クレーンなど重機を使った作業、杭などを製造から打ち込みまで一手に引き受けるプレキャストと製造的な分野にも進出する。

 隆元は186センチの長身だ。元LOと想像がつく。今、ラグビーの時の威圧感はない。黒が勝る目元は柔らかい。
「社員は280人くらいですかね」
 2年前の年商は160億円を超える。

 中村工業は5大ゼネコンからの仕事を受ける「サブコン」である。隆元が代表取締役についてからそのすべて、竹中、鹿島、大林、大成、清水からの受注を得るようになった。その勢いは今、ラグビーにも届く。

 女子ラグビーの「ナナイロ プリズム福岡」のスポンサーについた。白を基調としたジャージーの右胸には会社名と社標が輝く。昨年には選手のひとり、迫田夢乃を社員として中途採用した。

 ナナイロ プリズム福岡は2月8、9日の女子セブンズ(7人制)の大会、通称「ナナイロカップ」で初優勝を飾る。ながとブルーエンジェルスを決勝で24-14と破った。迫田は先発。その速さで2トライを挙げた。

 4回目の大会で初めての頂点はホストチームの面目躍如だった。ながとブルーエンジェルスは国内最高峰で4戦制の太陽生命ウィメンズシリーズを連覇中の「女王」である。

 迫田は昨年9月、セブンズの日本代表にも選ばれた。その応援に関して隆元は話す。
「社員に強制をしたくありません。迫田には来てもらえるようにふるまってほしい」
 隆元自身は2日間ともミクニワールドスタジアム北九州に足を運び、声援を送った。

 スポンサーになったのは3年前、最初のナナイロカップに足を運んだからだ。
「いいな、って思いました」
 誘ってくれたのは経営者仲間で同級生の脇山章太だった。慶応の理工学部体育会ラグビー部のOBである。社長をつとめる北洋建設はナナイロカップのメインスポンサーだ。

 隆元がラグビーを始めたのは福岡の私立男子校、中村学園三陽高校に入学直後だった。
「親戚が数人、やっていました」
 2つ下の後輩は冨岡鉄平。日本代表のCTBとしてキャップ2を得る。現役引退後は東芝(現BL東京)の監督をつとめた。

 ポジションはLOを任される。
「新入生は26、27人くらい。強化を始めた時で半分くらいが経験者でした」
 隆元は中学まで野球や水泳をやった。
「ランパスはもちろん、肩車をして100メートルを往復することもしました」
 初心者にとって練習はきつかった。

 退部を考える。先んじた同級生がいた。
「根性なし、と経験者たちからからかわれていました。自分には、やめる=退学でした」
 練習の厳しさや経験者からの優越感に耐える。この時期、不屈の精神が養われる。

 3年の新人戦は8強、春季大会は4強。ところが、最後の秋は初戦で公立校に負けた。
「全員ラグビーということで控え中心で試合をしました。点数は覚えていません」
 当時、交替のシステムはなかった。

 隆元の落胆は激しい。
「24時間、ラグビー漬けのような生活を送って、やらずに終わったのですから」
 その反動もあってか、卒業後は質屋などでのアルバイト生活を送る。2年後、建設の専門学校に通い始める。親族の要望だった。

 専門学校を出たあとは、中村工業ではなく鹿島建設で働いた。修行の一環である。
「鹿児島の県民交流センター(現カクイックス)の建設に関わったりしました」
 在籍は6年。その勤勉さで残るようにもすすめられたが、2002年、中村工業に帰る。

 当時の代表取締役は3代目、伯父の勝重だった。長男筋。新年、病身にもかかわらず差し飲みを望む。一升瓶を2本開けた。
「金粉が入ったやつと濁り酒でした」
 怖いと思っていた伯父と色んな話をした。会社の現状、行く末…。最後に言われた。
「おまえのいとこたちを頼むぜ」
 ほどなく、伯父は亡くなった。

 四代目の代表には次男筋、父の隆輔が直った。2008年、リーマンショックが来る。
「売り上げは半分になりました」
 銀行との折衝を任されたのは取締役のひとりだった隆元だった。

 3年ほどの辛抱のあと、景気は回復する。
「その間、鉛筆1本から燃料まで少しでも安い店を社員と一緒に探しました」
 10年前、創業110年を区切りに代表取締役に押し上げられる。汗をかき、現場を知る隆元は社員の希望だった。

 今、経営の根底にあるのはラグビーだ。
「自分だけでせんやったろう。誰かとせんといかん。仲間を思わないといけません」
 隆元は鳶工を高卒からの終身雇用で考えている。そうすれば人生設計は立てやすい。営業は会社がやり、技術を上げることにも集中してもらえる。職人の確保は会社の益にもなる。

 隆元は言う。
「中村工業あっての中村家。中村家あっての中村工業ではありません」
 そこには創業家特有のおごりはない。

 今年の元日、地元の西日本新聞に創業120年の1面広告を載せた。その言葉がある。
<ひとつになろう>
 撮影は創業の地に近い筥崎宮だった。

 隆元がやったLOはチームにおいて一番痛く、つらいことをやってのけなければならない。宿命の姿にチームはひとつにまとまり、勝利に向かう。中村工業を120年から先につなげるのはこの人こそがふさわしい。

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