京産大初の留学生キャプテンとして、2024シーズンのチームを率いたソロモネ・フナキ。その圧倒的なフィジカルとパワーは、同校の4年連続全国4強に欠かせぬピースだった。
フナキのラグビー史の始まりは13歳。ラグビーを国技とするトンガにあって、幼い頃から熱中していたのはバレーボールだった。
楕円球は遊びで触れる程度だったが、友人から「ラグビーをすれば絶対に強くなる(上に行ける)」と誘われ、人生が大きく変わった。
「最初は(ラグビーのセンスがあることが)信じられなくて、聞き流していました。でも、1回だけ友だちが所属するクラブチームに行ってみたんです」
そこで出会ったコーチにも強く勧められ、覚悟を決めた。
線の細かった当時はCTBやWTBでプレー。すぐさま頭角を現し、目黒学院高からオファーが届いた。周囲の目に狂いはなかったと証明してみせたのだ。
「高いレベルでラグビーができる日本に行きたかった」と話すように、当時から日本ラグビーへの憧れはあった。
母・ロニナサさんに日本行きを伝えると、涙を流して喜んでくれたという。
「めっちゃ喜んで泣いてた。あれだけは覚えてるなぁ」
母の涙には理由があった。
中学3年時に父・セイロニさんが亡くなった。
それまで専業主婦だった母一人で、家族を支えていくのは経済的に難しくなる。特にフナキは7人兄弟の末っ子だったこともあり、将来を心配していた。
そんな中で届いた吉報だ。日々の暮らしまでサポートしてくれる日本での生活は、母にとって喜びとともに安堵の涙でもあった。
わずか15歳で故郷を離れた異国での挑戦は、まず言語の壁が立ちはだかった。
「日本語をちゃんと覚えていないと、いい生活ができないと思った」
日本語の授業を熱心に受け、日本語を学ぶことから逃げなかった。その甲斐あって、2年目の春頃には会話に困らないほどにまで成長した。
当時から自身の弱点と向き合う強さがあった。
京産大に進学したのは「東京とは違う場所に行ってみたかった」から。関西か、九州かで迷う中、熱心に声をかけてくれた京産大に決めた。
1年時は波瀾万丈。コロナ禍の煽りを受け、何度も練習が中止になった。夏頃には自身も罹患。40度超の熱が何日も続き、ホテル療養では完治せず2週間の入院生活も経験した。
115キロあった体重は95キロまで減り、「日本に来て一番大変だった」と振り返る。
高2までCTB、3年時からバックローを務めたが、大学では一貫してLOを担った。
そこで、高校とのフィジカル差も痛感した。
レベルが格段に上がった新しい環境に適応する難しさを感じていた一方で、1年生で唯一スタメンに名を連ねた。
その大きなプレッシャーもルーキーにはのしかかったが、ある真理にも辿り着けた。
「試合前にプレッシャーを感じて不安になるのは準備が足りていないから。準備が足りていれば試合前に不安にならない」
だから、ウエートのペアを2学年上のアサエリ・ラウシー(現・BL東京)と組み、毎日高いレベルでトレーニングを積んだ。
チームの快挙にも貢献できた。
23年ぶりの関西優勝を果たし、大学選手権の初戦では2年前に敗れた日大を1点差(27-26)で破る。
向こうには、高校3年時に花園で敗れた大分東明にいたジョアペ・ナコ、セコナイア・ブルがいた。チームとしても個人としても、リベンジを果たせた。
15年ぶりの準決勝では王者・帝京大を最後の最後まで追い詰めた。
「1年目は本当に苦しかったけど、あの時頑張れていなければ今の自分はいない」
その努力は周囲の信頼も得た。4年時には人生で初めてキャプテンを任された。
「選ばれたときは不安だったし、ショックだった」
自身のパフォーマンスに集中したい。でも、どうすればチームが関西4連覇と日本一を達成できるのかという悩みも尽きなかった。
その責任感ゆえだろう。入学してから初めて関西リーグで敗れ、連覇も途絶えた折には、グラウンドで誰よりも涙を流すフナキの姿があった。
「本当に悔しかった。仲間やファン、OBの方々、グラウンドまで足を運んでくれた人たちを目の前で裏切ってしまった」
大学選手権に入ってからは青山学大、大東大に大勝と復調したが、全国4強の壁は厚かった。最後は早大に19-31と完敗した。
クラブで唯一、準決勝の舞台に4度立ったキャプテンが感じたのは、「国立で関東(の大学)に勝つにはまだまだ足りない」ということだ。
選手たちの意識を変えることが、日本一になるためには必要と説く。
「京産らしさ、アイデンティティはなくしたらダメ。でも、そこにプラスして選手たちがもっとタフなことをしていかないといけない」
卒業後はリーグワンのコベルコ神戸スティーラーズでプレーする。ともに共同主将を務めた辻野隼大と同じ進路を選んだ。
「歴史のあるチーム。ここで日本一になりたいと思った」
スティーラーズを日本一に導く夢、そして桜のジャージーを身に纏う夢を叶えるため、これからも”トライ”し続ける。
「タフで観客に元気を与えられる選手になりたい」と誓った。