ラグビーリパブリック

【コラム】いい質問は短い。

2025.01.31

写真はイメージです(Photo/Getty Images)

 深夜0時過ぎの入浴を経て、年末年始以外につける機会が減った気のする地上波のテレビをチェックしてみる。

 日付変更前の夕方に始まったフジテレビの記者会見が、ずっと続いていた。

 局の幹部である5名の高齢男性がスーツ姿でつるし上げられている原因および背景について、確たる情報を得ていない。そのためこの件については、「世に出回る報道の大筋が本当なのだとしたら確かに一大事である」といった程度の認識でしかない。

 それでもこの会見に興味を抱いた。なぜか。質疑応答が長期化しているわけが、問題の大きさ以外のところにもあったためだ。

 登壇者への質問というか訴えを、なかなか終わらせられない出席者が相次いでいたのである。

 ちょうどチャンネルを合わせた折は、フリーランスの男性ジャーナリストが、その人の知っている当該案件とは無関係の逸話をかなり丁寧に紹介。司会者に「そろそろ質問を…」と促されながら、「すぐ終わりますから」と制して話し続けていた。

 職業柄、数えきれないほどの記者会見に参加してきた。

 ラグビーの公式戦の後には両軍の指揮官や主将と面と向かうし、テストマッチが近づくと連日所定のエリアで選手の登壇へ備える。

 他にも日本ラグビーフットボール協会のような統括団体、現行のリーグワンに加盟するクラブなどが主催する定例のカンファレンス、不祥事を起こした団体の謝罪と釈明の場へも出向いたことがある。

 曲がりなりにも報道のパスをもらっているから、それぞれの場所で「自分がファンであれば何が知りたいか、ファンにどんなことを知って欲しいか」に沿って問いを練り、手を挙げる。

 そこで留意する、少なくとも留意したい点は、なるたけ質問を端的に仕上げることだ。

 20代の頃、尊敬するライターのひとりが「いい質問は短い」と発していた。当初はそれに無自覚に頷いていただけだが、メディアが何のために質問をしているのかという原則に沿えば、確かに、聞き手の話が冗長になるのは不自然だ。

 記者は、その場で起きたことを万人へ伝えるために書く。広く伝えるには、なるたけシャープにわかりやすく。取材はそれをするための手段。原則とはこういうことだ。

 取材で何かを問うには「なぜその人にそれを聞くのか」の背景説明がいるため、一定の「尺」が必要だ、との意見もあろう。

 ただそれも、例えばガバナンス側に「これからどうやって競技人口を増やしたいと考えるか」と聞く前段であれば「高校年代の人口減少が指摘されていますが」と添える程度でよい。もしもそれで情報不足と取られたら適宜補足して説くか、執筆時に「数十年前と比べると…」となど付け足せば済む話だ。

 結果を出していないヘッドコーチの指導力が疑問視される場合も、現象の描写とそれへの本人の受け止めを併記すれば事足りることがほとんどだ。コーチ自身への取材がその手段のひとつと考えたら、その席で記者が怒鳴ったり、わめいたりするのは必ずしも必要ではない。

 この話は、よいラグビーをするための「タックルしたらすぐに起立を」「常に前を見て判断すべし」という訓示に似ている。「話の長いおじさんが喋っているみたいな原稿」を書かないために「シンプルに聞く」といったイメージだ。

 もっとも筆者の意図は、話をまとめられない同業者を糾弾することにはない。

 そもそもこの手のマインドセットは、「常に意識した方がよいとわかっているものの、いつもそうできるとは限らない行動」のひとつだ。つまりはラグビーの正しいスキルと同じく、意識しているはずが遂行できるとは限らない。いつも冷静な書き手が激高する夜だってあるのはわかる。

 何よりここからが重要だが、トラブルにまつわる会見における本質的な問題点は、取材する側ではなく、取材される側にある。

 それは「成績不振の深層」であったり「誰もが知っているテレビ局の統治や人権感覚の問題」であったりと様々だ。

 少なくとも、ここで人々が「質問が~~」とわめけば本来の懸念点は陰に隠れる。よくないことに携わった登壇者たち(またそのフィクサー)がほくそ笑むのがオチだ。

 そのロジックを人々にリマインドすることも、これからの時代に報道に関わる人の責務となりつつある。

 メディアについて考える際、10年以上前のあるやり取りを思い出す。

 その時代のラグビー場には、ヴィヴィッドな成人向け雑誌のクレジットを背負った老齢の男性記者がいた。

 あるトップリーグの公式戦後の会見では、旧神戸製鋼の指揮官だった平尾誠二氏(故人)に「シーズン中に札幌で講演会を行った事実とその報酬」についていの一番で訊いていた。夏はタンクトップ、冬は革ジャン。異彩を放っていた。

 その人物をけん制するためか、ある大手メディアの担当記者が「会見での質問時は名前と媒体名を名乗るように」というルールを設けようとしたことがあった。

 競技団体の主催者ならまだしも、メディアの側が、である。

 結局は不成立に終わったものの、一時は業界の大物と目されていたベテランの一部もその流れに同調しかけていた。

 それに対し、当時20代で月収10万円以下の筆者は「いつもどこかで書けるとは限らないのにそんな決まりを作られてもなぁ」とぼんやり首を傾げていた。

 そして心ある人は、より明確に疑義を唱えていた。

 某日、よく食事をごちそうになっていた年長の報道関係者のひとりが、何よりストレートな提言を酒場で残したのだ。

「メディアがメディアを規制するなんて、違和感があるな」

 そうなのだ。プレスパスやビブスをつけた面々は、現場で知り得た内容を何らかの手段で人々に伝えるという意味では同列にある。

 権力者が何らかの不正を働いていたとしたら、それぞれが列をなして、あるいは各自が様々な角度から指摘するのがまっとうな構図である。

 この偉大なる建前に沿い、卓を囲んだ諸先輩方の間がこの主旨で重ねる。

「例の××(話題に挙がった成人向け雑誌の名前)の人だって、友達になるかはさておき規制の対象ではない」

「仲良くなった取材対象者と仲の悪い記者のどちらが仲間か? 間違いなく後者に決まっている」

「変な記者と悪質な権力者のどちらが問題か。答えは簡単だ」

 議論が白熱する延長で、ちょうど隣に座っていた恩師がこちらを向いた。

「そう。だから、俺も何かあったらフミヤを守るよ」

 感動した。

 …。

 いや、ちょっと待て。

「あの、いま、しれっと僕のことを変な記者と認定しました?」

 他にも伝えたいことはあるかもしれないが、これ以上記すと「話の長いおじさんが喋っているみたいな原稿」になる。終わりにします。

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