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【ラグリパWest】日本ラグビーに寄り添う㊦。太田治 [NECグリーンロケッツ東葛/GM]

2025.01.24

GR東葛は先月11日の対日野RD戦で<Re:柏の葉1万人CREW計画>を成功させ、目標とする1万人の観衆を呼び込んだ。その先頭に立った太田治GMは次の目標を「ディビジョン1昇格」に置いている。写真はその日野RD戦の一コマ。(©JRLO)

 太田治は日本ラグビーの要職を経験して、母なるGR東葛のGMになる。現役時代はこのチームの前身、NECで左PRとして日本代表キャップ27を得た。

 太田がこの還暦まで貫き通すラグビーを始めたのは、「アキコー」と呼ばれる秋田工の1年生だった。15歳である。
「高校を出たら働くつもりだったんだ。それでアキコーを選んだんだよ」
 工業校で手に職をつける考えだった。最初、部活は中学からのバスケに入った。

 ただ、当時から180センチほどあった太田に名門のラグビー部が目をつける。創部は1925年(大正14)。全国優勝とその大会出場はともに最多回数の15と72を誇る。

 太田の入学時、秋田工の全国優勝は13回。部活としては花形だった。2学年上に土田雅人がいた。同志社からサントリー(現・東京SG)に入り、現在は日本ラグビー協会のトップ、会長をつとめている。

 太田の去就を両部の首脳が裏で話し合い、ラグビーに移る。正式入部は秋9月だった。
「今でも同期に言われるよ。おまえは一番きつい夏合宿を体験していない、って」
 その後の太田の履歴を見れば、それは多少のやっかみが入っていると言えなくはない。

 秋田工の練習はきつかった。
「カメ、やったよ。100メートル往復だ」
 四つん這いになって、スクラムの姿勢を崩さないようにしてじりじり進む。体力と辛抱強さ。この時に将来の基礎ができ上る。

 ラグビー首脳の目は正しかった。その1年の冬、太田は全国大会のために大阪・花園ラグビー場に行く選抜メンバーに入る。
「1年生から5人だけ選ばれた。4か月しかラグビーをやってないのにね」
 その5人の中には1年からSHのレギュラーに座る村井成人(なると)もいた。村井はともに明治に進学する。

 太田の高1時、秋田から大阪は遠かった。秋田どころか東北新幹線ですら開通していない。今の秋田空港の開港は1年後だった。
「夜行で行ったんだよな」
 濃紺の寝台特急「日本海」に乗る。列車は青森と大阪を結ぶ。太田らは秋田から乗り込み、山形、新潟、富山と雪深い地域を抜けた。

 高1の60回大会(1980年度)は8強敗退。初優勝する伏見工(現・京都工学院)に10-16だった。秋田工のNO8は土田。伏見工のSO主将はのちに「ミスター・ラグビー」と呼ばれる平尾誠二だった。2人は同志社でチームメイトになる。

 高2から太田は左PRとして背番号1を背負った。その61回大会は準優勝。大阪工大高(現・常翔学園)に4-13だった。3年時の62回大会は4強敗退。優勝する國學院久我山に0-20だった。

 ラグビーにのめり込む中、太田は就職から明治進学に傾く。高校日本代表の候補合宿に参加したことも理由のひとつだった。
「みんな大学に行く。自分も行きたくなった。早明戦も見たしね」
 国立競技場での早稲田戦の観衆の多さに酔う。秋田工の首脳も明治推しだった。

 その上、ひとつ上の「りゅーこーさん」こと田中龍幸がLOとして紫紺ジャージーを着て公式戦に出ていた。田中は秋田市立(現・秋田中央)だが、選抜チームで一緒だった。親近感があった。NECを選んだのも田中の影響がある。太田は一部の文学部に入学する。

 下級生の時は主将になる佐藤康信がいた。太田は3年から左PRでレギュラーになる。その年の大学選手権は22回大会(1985年度)だった。決勝で慶応に12-12で引き分け、両校優勝となる。

 当時、優勝チームは社会人と日本一を決める日本選手権を戦った。
「慶応の監督の上田さんが、優勝を味わおう、ということで抽選は翌日になった」
 抽選の末、日本選手権には慶応が出た。

「上田さん」は上田昭夫。慶応の監督を2期10年つとめた。この23回目の日本選手権で慶応はトヨタ自動車(現トヨタV)に18-13と競り勝った。明治は決勝戦で慶応からこの試合唯一のトライを奪っており、出ていれば勝った可能性が残っている。

 大学時代、太田は東京・八幡山のラグビー部寮で暮らした。太田の同世代だった寮生らが食事のことを話したことがある。
「朝のおかずできゅうりがそのまま出てきたことがあった」
 醤油と七味、マヨネーズで味をつけた。

 豚汁は上級生が具をすくうため、下級生は汁のみ。昔の相撲部屋と同じ感じだった。その豚汁に生卵を割り入れて食べる。昼は大量の食パンとゆで卵。公式戦の週にはOBが送ってきたステーキなどが「メンバー食」として出場選手にふるまわれた。

 明治だけが特別ではない。当時はどこのラグビー部寮も似たような感じだった。今は栄養士もつき、上級生も下級生も同じものを同じだけ食べる。太田は厳しい時代を潜り抜けて、レギュラーをつかみ取った。

 4年時の大学選手権は23回大会。4強戦で敗退する。初優勝する大東文化に3-11だった。この1986年、太田は初めて日本代表に選ばれる。そして、1987年3月の大学卒業後、NECに入社。選手から監督をつとめ、日本代表のGM、トップリーグやそれに次ぐリーグワンにも力を注ぐことになる。

 今は日本ラグビー協会からGR東葛に戻ってきた。還暦前のGM就任はある意味、「最後のご奉公」である。
「全敗したらクビだよ。そらそうやん」
 その厳しさもまた口にする。

 目標は決まっている。
「まずはディビジョン1昇格よ」
 日本選手権を制した四半世紀ほど前のチームに力を戻したい。高卒就職から転進したラグビー人生すべてをこれからはGR東葛のために注ぎ込んでゆく。

日本ラグビーに寄り添う、終わり)

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