タイトルのかかった試合で渋く光った。橋本颯太は11月24日、東京・秩父宮ラグビー場で大東大の13番をつけた。
臨んだのは関東大学リーグ戦1部の最終節だ。勝てば7年ぶり9度目の優勝を決められる一方、負ければ他校との兼ね合いにより大学選手権進出枠の上位3傑から漏れそうだった。重圧がかかった。
ここで身長177センチ、体重90キロの3年生部員は、対する法大を何度も跳ね返した。
自陣22メートルエリアで狙いすましたようなタックルを決めたのは、前半4分のこと。0-0で迎えたピンチを脱すると、その後も堅牢を作った。時には味方と連係してスペースを埋め、時には意を決し飛び出した。
横一列の防御網を保つのを第一に考えながら、「球(相手のパス)が浮いたり、(自身と対面との)距離が短かったり」した場合は一気に間合いを詰めた。
やがて攻守逆転などからチャンスを得て、じりじりと点差を広げる。
自身の相方で「すごく考えてプレーしている。アドバイスもくれる」という4年のハニテリ・ヴァイレア副将が妙技、ラインブレイクを重ねたのもあり、後半26分までに45-13とした。
一部の選手を入れ替えていた終盤こそ追い上げられるも、45-32で白星と王座を掴んだ。
「(法大戦へは)チームで何をするかを決め、ひとつになりました。気持ちを上げて、パッションを持って試合をしよう…と」
楕円球一家に育った。
父の橋本大介氏は地元である埼玉の県立高校でラグビーを教えていて、いとこの大吾は2016年に現東芝ブレイルブーパス東京入りする実力者だった。
颯太は自身より10学年上の大吾の家族に連れられる形で、小学1年時より競技を始めた。
もともと運動が好きだったとあり、地元の熊谷ラグビースクールで「動くこと、ボールを触ること」を楽しんだ。
「ラグビーは、やっていなかった時も映像で見ていました」
家族を驚かせたのは熊谷東中の3年時。大介は、妻が出席した三者面談の様子を聞いて自分の耳を疑ったという。
「県外に行くものとばかり思っていたのですが、『颯太が工業に行きたいって』と」
ちょうど父親が監督をしていた熊谷工へ、自らの意思で進みたいというのだ。
「工業」と呼ばれる熊谷工は、かつて高校日本一も経験した古豪。OBでもある大介が赴任した‘13年度は部員20名以下と苦しんでいたが、颯太が入る’19年には復権への階段を登っていた。
父の指導を受けると決めた頃の心境を、息子は大学生になってから後述する。
「(他県の)強いところに行きたい気持ちもありましたけど、埼玉県内だったら熊谷工だけというもの(思い)はありました。昔、強かったので復活させたいなと」
大介は自主性を貴ぶことで知られるが、現役学生だった颯太によれば厳しい言葉を投げかけられることもあるそう。自宅へ戻った先にその指揮官がいるのだから、颯太は「(自宅で)多少の気まずさはありました」と笑う。
しかしコーチとプレーヤーとしては、信頼関係を紡いでいたようだ。颯太は最終学年時、大介からゲーム主将を任された。
「僕はまとめるタイプじゃなかったんですけど、『試合の時は、お前がまとめろ』と」
卒業して東松山市にある大東大の寮へ入ってからは、関係性が変わった。お互いのチームやこのスポーツについて、フラットな立場で意見がかわせるようになったのだ。
「いまは、仲がいいです!」
大学では、就任2年目の酒井宏之監督に「自信を持て」と発破をかけられてきた。今夏のトレーニングマッチで得意の守備で手応えを掴み、いまは堂々とフィールドに立っているようだ。
12月22日から参戦の大学選手権では、他グループの強豪と戦う。持ち味を活かす。
「ディフェンスで貢献できるようになってきたので、自信はつきました。選手権では攻撃力があるチームとぶつかる。自分たちがどうディフェンスし、少ないチャンスで得点できるか…。我慢して、(点を)獲る」
遡って16日には熊谷ラグビー場に出かけ、熊谷工が14年ぶりに挑んだ県大会決勝を観戦した。自身のリーグ戦優勝をかけた法大戦は、家族に見守られた。