知る人ぞ知る実力者だ。
関西学院大の4年でレギュラーの川村祐太は、満を持して関西リーグの舞台に立っている。
1年時から出場機会を掴むも、過去2年はケガに泣いた。
「高校までほとんどケガしたことがなかったのですが…。大学2年の時に腰のヘルニアから始まって、足首の靭帯の断裂、去年の春は左膝の前十字靭帯を断裂しました」
昨季はU20日本代表の候補合宿に呼ばれたが、それもふいにした。復帰は秋の関西リーグ期間中。しかし、チームが4年ぶりの大学選手権出場を果たす傍ら、川村はジュニアリーグにとどまり、シーズンを終えた。
「大学では悔しい思いの方が強いです。唯一出られた1年の時もチームは最下位でしたし、個人としてもフィジカルがまったく通用しませんでした」
今季は春から万全の状態で試合に臨めているのは、佐藤義人さんの存在が大きい。
昨季限りで現役を引退した堀江翔太さんが師事する、凄腕のアスレチックトレーナーだ。
ケガをしてから早期で復帰させることに定評があり、これまでも多くのトップアスリートが佐藤さんのもとに足を運んでいる。
川村も関西学院大OBで東芝ブレイブルーパス東京の德永祥尭を通じ、その指導を受けることができた。
「体の使い方、特に足の指の使い方を教わるのですが、しっかり芝を足の指でかむことで今では倒れにくい走り方ができていると思います。初速も速くなったと思いますし、足の回転数も上がりました」
グラウンドに立てない期間は長かったが、チームからの信頼は厚い。今季はBKリーダーを任され、アタックの中枢を担う。
「ここにスペースがあるから何フェーズ目で振るとか、ここで前に出られたら向こうのスペースが空く、というのを想定して味方を動かすのは得意です。今シーズンは松本(壮馬/CTB)とBKコーチの房本(泰治)さんとミーティングを重ねて、サインプレーを例年よりも多く考えています」
中学まではさながら旅人だった。
大阪府出身。小学1年から地元の茨木ラグビースクールに通った。
小学4年の途中から、銀行員の父の転勤で名古屋に引っ越す。6年までは名古屋ラグビスクールに在籍した。
中学は再び転勤で札幌に移った。3年間は北海道バーバリアンズジュニアに所属した。
「色々行かせてもらいました」と二度の引越しを感謝するが、当時は「嫌だった」と笑う。
「友達と離れるのが寂しくて。でも札幌に行く時にはもう慣れていて、あまり行く機会もないですし、行こうかなくらいのテンションでした」
各地で仲間を作れたのも財産だ。いまもそれぞれの場所で活躍していることを喜ぶ。
茨木RSには同志社大の奥平都太郎(FL)、名古屋RSには筑波大の堀日向太(CTB/副将)、北海道BBJには流経大のシンクル蓮(LO/主将)らがいた。
それぞれのスクールで異なる体験もできた。
「名古屋の時は愛知県で優勝できました。ヒーローズカップ(全国大会)は中学受験組が大量に抜けてすぐに負けましたが…(笑)。北海道の時は合同チームでメンバーがあまり揃わない時期も多くて、かなり苦労しました。でも、そこで個人の練習にたくさんの時間を使うことができた。北海道バーバリアンズの社会人の方にもよく教わっていました」
個人練には、いまの川村を作った逸話もある。
「近くの小学校のグラウンドに勝手に入って、ひたすら電柱に向かってキックを蹴っていました。努力した分、それが自分の身になるとそこで分かってからは、自分のこと追い込むのは苦ではありません」
高校では勉強もラグビーも努力できる環境に身を置くため、父も通った関西学院高へ。「花園を本気で目指せると思いました」
3年時にその夢を叶える。兵庫県予選決勝で5年ぶりに報徳学園を破り、100回目の花園に出た。
「僕たちの代はちょうどコロナが流行り始めて、夏までほとんど学校にも行けませんでした。でもその間に一人ひとりが努力して、もう一度集まれた時にフィジカルもフィットネスも上がっていました」
川村もまた、人一倍努力できた。自宅近くの服部緑地公園の外周をひたすら走り続けたのだ。
「ランニングアプリでみんなが走った距離を共有していました。誰にも負けたくありませんでした」
そんな努力できるメンバーたちが今季、関西学院大の4年生になった。
「今年は本当に関西のトップを狙えるチームだと思っています」
11月10日には天理大戦、17日には京産大戦を控える。4年間で秋では一度も勝てていない上位勢とぶつかる。
ここまで苦しんだ分、今年こそは笑う。