最初にラグビーと出会わせてもらったチームを自ら復活させる。
仲間の力を借りてそのプロジェクトを動かすのは森川稔之さん。かつて旧トップリーグの宗像サニックスブルースでプレーした31歳だ。
再建するのはて福岡平尾ウイングRFCである。通称平尾ウイング。福岡市中央区の都心部で、おもに平尾小の生徒を大いに熱狂させた。現リーグワン1部・静岡ブルーレヴズで日本代表6キャップの伊藤平一郎ら、複数のトップ選手を輩出した。
創設者で平尾小教諭だった手塚耕一が、競技を通じて互いを助け合ったり、認め合ったりする心を伝授してきた。
森川が覚えているのは、「小学5年生くらい」の頃の出来事だ。
対外試合で、いきなり手塚に交代を命じられた。後になって聞いたその理由を、大人になっても忘れずにいる。
「チームが(相手走者に)抜かれた時、僕がそれを最後まで追わなかったんです。『追いつかないと思った時点であかん。追い続ける姿勢が大事だ』と」
平尾ウイングで似た思い出を持つ卒業生に、森川より3学年下の中井健人がいる。
経験者の父と個人練習をしたうえで小学1年から平尾ウイングへ混ざると、手塚に「日本代表になれるぞ」と励まされた。小学6年のある日、厳しい視線を向けられた。
「(ゲームの)メンバー発表の時にずっとぺちゃくちゃしゃべっていたら、(主力組から)外されたんです。手塚監督は小学校の先生でもある。人間のあり方、仲間を思いやる気持ちについて、あれほど本気で怒ってくれる人はいなかった」
現在、リーグワンの三菱重工相模原ダイナボアーズにいる中井は、手塚には不思議な包容力があったとも語る。
小学5年でラグビーから離れた時期のことだ。かねて興味のあった野球のチームへ入ったのだが、恩師はもちろんチームメイトからも引き止められなかった。
やがて、手塚が部員にこう告げていたと知った。
「健人は誰よりもラグビーを愛している。きっと勝手に帰ってくるから、声はかけなくていい」
実際、中井は「2か月」で平尾ウイングに復帰。「公園では凄かった」はずのピッチングは滅多打ちされ、コンバートされたレフトでは打球が飛んでこなくて退屈になったのだ。
「僕は当時やんちゃで、常に動き回るラグビーに自然と戻っていきました。手塚監督は、『あいつがバッターの打順を待てるわけがない』とも話していたみたいです。本当に仰る通りになりました。それと、もし『辞めるな』と言われていたら戻らなかったかもしれない。それでも友達に『信じて待て』と言ってくれていたことで、僕はいまでも続けられている。本当に感謝しています」
時間が経つほど、創始者の情熱の深さを再確認する。
「平尾は福岡でも街のほう。手塚先生は平尾ウイングを作る時、他のチームのスタッフの方から『そんな都会の子がラグビーなんてできるわけない』と馬鹿にされていたようです。それでもチームは長らく続いて、県大会で優勝したこともあり、何人もトップリーグ(リーグワン)の選手が出ているんです」
その鼓動が止まったのは2008年。発足13年目のことだ。手塚の体調不良と転勤が重なったためだ。
森川は当時、中学3年で春日リトルラガーズに在籍。故郷にあたるチームがなくなることに寂しさを覚えた。同時に、手塚が卒業生に平尾ウイングを再開させて欲しがっているようだと把握していた。
サニックスを’18年に退団後は、大阪のリコージャパンでプレー。家業を継ぐべく帰郷した昨年、リスタートの旗振り役を買って出た。新しい監督となる。
校庭を使える「公民館サークル」という位置づけになるよう、関係各所との会議に出席。妹の同級生でもあった中井らOBに連絡を取り、常勤、臨時の指導員を募った。
翌年の本格始動へ、現在は定期的に体験会をおこなう。集まった子どもたちに楽しんでもらえた感触こそあるが、参加者の数は横ばいとする。
自分たちの時代と異なる配慮を施すべきだと、再認識する。
「体験会ではラグビーボールで楽しんでもらうことをメインに据えましたが、今後は『活動を通じて〇〇が成長する』といったものを伝えられるかが課題です。やはり、親御さんがチームに子どもを連れてきてもらえるかが大事。(両親に)平尾ウイングがどれだけ成長できるチームなのかを伝えられたら」
保護者と協力して選手を育てるマインドは、スクールの動きが活性化しても変えずにいたい。
中井も「親とタッグを組めば、これから森川監督が本気で怒ることがあっても理解してもらえるはず」。外部コーチとして登録されており、チームスケジュールのない8月19日には福岡へ戻り、体験会に参加するつもりだ。