静かにブーツを脱いだ。
4月1日、合谷和弘が自身のSNSで現役引退を表明した。悩み抜いた末の決断だった。
6季在籍したクボタスピアーズ船橋・東京ベイを退団したのが2021年度シーズン終了後。新天地に選んだのはフランスだった。
TOP14を1部リーグとして、5部に相当するフェデラル2のパミエに加入(前シーズンまで3部に所属も、リーグの再編によって5部に)。シーズン途中の11月に合流し、2週後には先発出場を果たした。以来、「15試合ほど」あった公式戦のほぼすべてに先発した。
「通用する感覚がありました。初戦でトライも取れて、結構調子に乗って(笑)」
支えてくれた仲間たちに感謝した。
「選手もスタッフもみんな歓迎してくれました。なんて言っていたのかは分かりませんが、思い切りやっていいぞと。そんな感じだったと思います」
南アフリカ出身でCTBのディーン・ファン・デル・ウェストハイゼンは、特に気にかけてくれた。異国の地でプレーする似た境遇の同士に、英語でゆっくり丁寧に話してくれたのだ。
「ミーティングもすべてフランス語なので、本当に分からなくて…。でもディーンが後でノートに起こして、サインプレーを教えてくれた。それでなんとかなりました。今でもたまに連絡をくれます。アイミスユーって(笑)」
現地の日本人のサポートもありがたかった。息子が茗溪学園でラグビーをしている御厨さんは、何度も試合会場に足を運んでくれた。
「ハルさん(立川理道)とは代表でフランスに遠征した時からの付き合いだそうで、僕がフランス行きを決めた時に『紹介するよ』と言ってくれて。オフの日は一緒に山に登ったりもしました」
日常生活は苦戦の連続だった。銀行口座を作るのに1か月以上の時を要したり、病院の予約が2、3週先まで取れなかったり。いざ病院に行けば、待合室で4時間も待たされたこともあった。
それでも、「みんなのラグビーに対する情熱がすごく伝わってきた。だから、僕もやっていてすごく楽しかった」とフランス生活を振り返れる。
「フランスは選手の自主性を大切にしています。練習の内容も、コーチたちが選手たちに聞いて、意見を取り入れながらメニューを組む。それは学生の頃からやっているみたいです。発言するのはリーダー陣だけでなくて、みんなが自分の意見をめちゃくちゃ言います」
在籍する選手のほとんどがアマチュアだ。日本の社員選手のように日中は働き、トレーニングは夜におこなわれる。ミーティングも含めて2時間でサクッと終わるという。
「その分、休憩も短いです。それが最初はめちゃくちゃきつかった(笑)」
4月中旬にシーズンを終えた。契約は1シーズンだった。
今回の入団を後押ししてくれたパトリック・パッションさん(代官山でフランス料理店を経営)が、次のチームも探してくれた。実際に別のチームからの誘いもあった。
「でも僕は一人ではなかった。家族もいますし、子どもがまだ生まれたばかりというのもありました」
フランスでのオフシーズンを少々楽しみ、帰国したのは6月末。オファーを受けてからも、1か月ほど悩んだ。
もう一度単身で行くか。それとも、家族を連れて行くか。
「妻はすごく応援してくれていて、思うがままにやっていいよと。でも、例えばで子どもが熱を出した時に、病院に行ってもフランスでは言葉が通じない。それは厳しいなと」
最善手はリーグワンへの復帰と考えた。エージェントを頼りにチームを探した。
しかし、良い返事は返ってこなかった。
「セブンズを長いことやっていたこともありましたし、バックスリーがどんどん大型化する中では自分は小さい方になってしまう(170㌢、78㌔)。あまり評価をされなかったのだと思います」
7人制の舞台に戻ることも考えたが、悩みに悩んで「ラグビーが人生のすべてではない」と思い、30歳での引退を決めた。
4月からは現役時代にお世話になった『X BODY Lab』で、パーソナルトレーナーとして働いている。
同ジムでは、電気が流れる専用のスーツを着た「EMSトレーニング」をおこなっている。電気刺激を利用して筋肉を収縮させ、トレーニング効果を高めるという。
「20分のトレーニングで、3、4時間分のトレーニング効果があると言われています。自分も始めてからパフォーマンスが上がった実感があり、気に入って続けていました。実は引退する前から、熱烈に誘っていただいていて。興味があったので、その時から(トレーナーの)研修を受けていました」
人と話すのが好きだから、いろんな人のいろんな話を聞くこの仕事に魅力を感じている。「ラグビーしかやってこなかったので、ちゃんと働くのも初めて。それも新鮮で楽しい」という。
望んだ終わり方ではなかったけれど、つくしヤングラガーズで小学3年時から始まったラグビー人生は「楽しかったですよ。ラグビーはずっと好きだったので」と振り返る。
「すごく良い経験をさせてもらいました。いろんな人の支えがあったからこそ、ここまでやれたと思っています。応援してくれた人たちにこれから何ができるかを考えるだけでもワクワクしている。ちゃんと恩返しをしたいと思います」
オリンピックには2度の出場を果たした。リオ五輪では4位と躍進したメンバーの一員だった。
「(プールステージで)ニュージーランドに勝った瞬間、トライした瞬間…。今でも思い出せます。オリンピック種目になったのは確か、大学生の頃でした。それまではオリンピックは無縁だと思っていたので、本当に良い経験でした」
セブンズを始めたのは流経大に入学してからだ。はじめはYC&ACセブンズと記憶している。
「セブンズって、こんな楽しいんだなと。きついなとは思いましたけど、3年の時にMVPに選ばれて、自分に合っているのかもしれないと思いました」
セブンズ代表の瀬川智広監督(当時/現摂南大監督)の目に止まり、学生時代から代表入りした。
「レベルがまったく違いましたね。最初は体力が全然追いつかなくて。得意と思っていたステップも、結局は体力がないとできないんです。練習後にエキストラでバイクを漕いだり、走ったり。苦手だったのですが、吐くくらいまで頑張りました」
東京五輪まで続けて、キャップ数は25を誇る。ワールドセブンズシリーズではいろんな国を旅することができた。お気に入りの遠征地はラスベガス(アメリカ)とバンクーバー(カナダ)だ。
「ラスベガスはなぜか活躍できそうな感覚があって、実際に調子も良かった。自分に合った雰囲気のスタジアムがあるんだと思います。トライまではいかなかったけど、5、6人抜けた試合がありました。バンクーバーは町並みが好きでした。冬だったこともあり、雪でキラキラしていた」
セブンズ経験者として、「みんなにもぜひやってほしい」と思う。現状を憂うのは、トップリーグの時に存在したバックアップ体制がなくなったからだ。
当時はクラブがセブンズの代表選手を輩出すると、その派遣人数に応じてカテゴリB選手の試合出場人数を増やすことができた。
「セブンズの選手をチームに残す価値が薄くなっているので、プロ選手がセブンズに挑戦しにくくなっていると感じます。でも自分はリオ五輪が終わった2週後に開幕したトップリーグにも出ていましたし、パフォーマンスも良かった。セブンズのせいで15人制ができなくなることはないですし、むしろ80分ではまったく疲れない体になっていました。セブンズをやった人は、体を張れる選手も多いです。1対1で外されてはいけないから、根性があります」
今後はパーソナルトレーナーとしての活動が軸にはなるけれど、ラグビーのイベントやコーチングセッションに参加したり、セブンズやラグビーを広める活動は続けていきたい。
自分を育ててくれた楕円球への、恩返しが始まる。