ラグビーリパブリック

【コラム】過酷な練習の幸せ。

2024.04.22

左端が大学時代の筆者。東伏見のグラウンドにて。(撮影/大村祐治)



 大西鐵之祐先生は、昭和39年(1964年)、早稲田大学ラグビー蹴球部の監督を就任され、かつては部の学術研究誌とも言える「鉄笛」に、このような文章を載せている。

 昔は戦略の要諦を「天の時、地の利、人の和」としたけれど、これをラグビーに当てはめて考えると「天の時、地の利」は相等しく、「ただ和のみ」ということになる。
 私は勝つ為の要素として、「和、研究、努力」この3つを挙げる。

 和は、全部員のチームワークであり、研究は、理論と練習の一致、技術の錬磨であり、努力は、全身全霊を打ち込む一刻一刻の累積である。

 大事を成す為には、思想的統一と団結。そして、全員がこの一つの目的にベストを尽くして打ち込み、 はじめて完成されるのである。

 その理論の実行、修正、努力を繰り返し、自らの信念にまで昇華することが重要である。

 この意味において、大学とラグビー部の生活は、幸福この上ないものと言えるであろう。

 大学は、諸君にあらゆる理論追求の場を与えてくれるし、ラグビー部の生活は、こうした理論を実践に移す、最適の場と言える。

 何ら物質的利益を追求することのない純粋な、勝利という目的のために全エネルギーを集中するなら、必ずや人生における最も重要な、強固な信念を掴み取ることができるであろう。

 人生には必ずその信念に基づいて、生命をも打ち込む一時期がやってくる。その時こそ、その人間の真価が問われる。

 打ち込むことのないラグビー生活、それは諸君の青春に何の価値も与えないであろう。いかなる重圧にも押しつぶされない人間の信念とは、こうした試練が過酷であればあるほど強固に育成されるのである。

 あの、苛烈な青春の4年間を思い返すとき、この大西先生のメッセージが、心に響いてくる。
 僕は、何度も退部の危機に瀕してきた、落ちこぼれのラグビー部員であった。

 当時ワセダは、セレクションなどは無かったので、ワセダの学生であれば、入りたい者は誰でも、(かつて)栄光の早稲田大学ラグビー蹴球部に入部することが出来た。
 「来る者拒まず、去る者追わず」という大人の理想的なチームであった。

 ラグビーが上手いか、下手かではなく、ワセダで本当にラグビーがやりたいのか、諦めるのか、このどちらかであった。

 新入生が多い年は、全体練習にも支障をきたすので、練習は過酷を極めた。その練習に、ついて来るのか、来れないのか、そのどちらかだった。
 新入生が退部するには、退部届があるわけでもない。キャプテンに申し出る必要もない。

 ただ、翌日の練習に来なければ、ああ退部したんだ。と全部員が認識するだけだ。
 仲が良く男気のある同期が、グラウンドに姿を現さなかった日は、彼と、もう会えないのかと思うと悲しかった。
 でも、僕も、いつこの糸が切れるか、自分でも分からなかった。

 何を言われようと、石にかじりついてもワセダでラグビーがしたい。と、毎日、グラウンドに向かって歩いて来る人間だけが、ラグビー部員でいつづけられた。

 あの4年間が、僕にとって何を残してくれたのだろうか。走り続けた走力や持久力、鍛え上げた筋力が、その後の社会人になって、活かされたことはほとんどないし、その身体も、今では跡形も無い。
 しかし、精神、どんな困難をも耐え、乗り越えるスピリットは、あの4年間で培われたように思う。

 僕の出身である福島は、度重なる大地震や、原発事故を経験している。
 原発建屋が爆発した光景は、テレビで見た時の心境を今も覚えている。1号機の次に、2号機が爆発した時は、最悪の事態を連想し、愕然とした。

 このまま爆発の連鎖が続くのだろうか。
 福島が、東日本が、破滅に向かう。とさえ心をよぎった。
 風向きによってはその可能性もあった。他人事ではない、原発の爆発など、夢にも、想像もしなかったことが、この身に降りかかって来た。

 政府はパニックを恐れて、本当の情報を発信せず、恐怖感だけが先行し、何を信じれば良いのかさえ分からずに、追いつめられていった。
 福島へのガソリン供給も極端に減り、身動きが取れなくなった。
 ガソリンが入荷した。という情報が流れると、スタンドの前には長蛇の列ができ、前の晩から車に寝て並ぶ人も現れた。
 それでも、一人10リットルずつの供給で、皆で分け合った。

 人生は時にドラマ以上の展開が、目の前に現れる。

 この春、様々な部活に入部して、初めて経験する世界の中で、苦悶の日々を送っている新入生へ、
 安易に楽な道を選ばず、困難に、自ら向かって行くことが出来たなら、きっとその強さが人生の根幹をなし、自分史上、最高の人生を謳歌できる。
 「何かに打ち込むことのない学生生活、それは諸君の青春に何の価値も与えないであろう。」
 若きアスリートの、過酷な青春の日々が、その後の人生を彩る、パステルカラーの美しいクレパスとなることを願う。

【著者プロフィール】
渡邊 隆[1981年度 早大4年/FL]
わたなべ・たかし◎1957年6月14日、福島県生まれ。安達高→早大。171㌢、76㌔(大学4年時)。早大ラグビー部1981年度FL。中学相撲全国大会準優勝、高校時代は陸上部。2浪後に大学入学、ラグビーを始める。大西鐵之祐監督の目に止まり、4年時にレギュラーを勝ち取る。1982年全早稲田英仏遠征メンバー。現在は株式会社糀屋(空の庭)CEO。愛称は「ドス」


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