日本ラグビー協会は4月15日、横浜キヤノンイーグルスの永友洋司GMが15人制男子日本代表チームディレクターに就任することを発表した。
ラグビーマガジンでは昨夏に、明治大学ラグビー部100周年を記念して「明治ラグビー100年」を編集。そこで掲載された永友氏のインタビューを抜粋して再録する(掲載内容はすべて当時のまま/敬称略)。
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さながらアイドルだった。
明大ラグビー部時代の永友洋司は、バレンタインデーになると八幡山の寮のベッドに乗せきれないほどのチョコレートをもらった。
東京は国立競技場での「早明戦」の券に希少価値があった1990年代、プレースキックを蹴るSHとして躍動した。チームのレギュラーになった2年目からは、2季続けて大学日本一に輝いた。
「いい時代にやらせていただいたと感じます。ファンの方々との距離も遠くなかったですし、身近に感じていただいていたのだと思います」
じっと椅子に座っているのが苦手だった。小学生の頃に通った書道教室では、手本を見て8枚の半紙に筆を入れなければならないところで2枚重ねていっぺんに仕上げようとしたものだ。
のちの足跡を鑑みればスマートな選手の素養があったと捉えられそうだが、大人になった当の本人は「悪ガキだったので、どうさぼるかばかりを考えていました。いまは、そういうことをしてはいけないとは思いますけど…」と苦笑する。
より自分を出せたのは、運動をしていた時だった。
長らくサッカー少年だったが、地元の宮崎にある都城高で楕円球と出会う前からこの競技に親しんだ。10歳上の兄がプレーしていたからだ。
毎年12月の第1週になると、関東大学対抗戦Aの早大対明大をNHKで見た。「早明戦。僕らは明早戦と呼ばないと怒られちゃうのですけど」。紫紺と臙脂のぶつかり合い、都会の競技場が醸す空気に憧れた。
明大ラグビー部に注目し始めたのは、都城高2年生の頃か。
1年先輩でLOの坂元勝彦の入部が決定済みだったのもあり、北島忠治監督が寺西博コーチと宮崎を訪れていた。テレビで見たことがある北島監督が自分たちのグラウンドに来て、高校の指導者に「部内マッチをやってくれ」と頼み、その流れで自分の動きを評価してくれたのをぼんやりと覚えている。
まもなく再確認したのは、目標を持つことの大切さだ。
あれほど勉強が嫌いだったのに、明大のスポーツ推薦に受かるための論文と面接の対策、評定平均の維持には真剣に取り組めたのだ。
晴れて合格した。もとの働き場だったSOやFBから本格的にSHへ転じたのは、憧れの明大に入ってからだ。下級生用の玄関に物が散乱する寮の暮らしに愚痴をこぼさないことはなかったが、教科書からは学べぬ知見を得られたのも確かだ。
「一緒にやるぞ」
入学時に4年生SHとして試合に出ていた中田雄一が、3年生だった宮島勝利や自分を誘ってポジション練習をしてくれた。
明大では、強力FWが接点からきれいに球を出す。地面で止まったボールを正確に投げ続けながら、中田や宮島に助言を仰いだ。
自身の序列を上げるなか、ライバルの知恵も吸収した。
年代別を含む代表活動に呼ばれると、早明戦でしのぎを削った2つ上の堀越正巳を質問攻めにした。
日本代表では明大でのプレー時と異なり、自分たちよりも強力な相手の圧力を受ける。接点でも不規則に動くボールをさばくことが多かったが、明大に挑む早大SHは、その状況に慣れていた。
堀越には、地面で弾む球を上から押さえつけてからパスする習慣があった。永友は感銘を受けた。
名手との交流を通し、永友は自分なりの成功哲学を確立させる。
「自分から聞いていく。いろんなものを包み隠さず教えてくれる。ここはラグビーのいいところなのかなと感じます。ただ、人と同じことを真似ても決してうまくはならない。自分でどうアレンジするか、です」
絶対的存在の北島監督からは、明大で生きる意味を教わった。
試合のメンバーを決める時、監督は部員を集めて1番から順に立候補させ、そのひとりを「じゃあお前」と指名していた。永友はいつも輪の前列に立ち、「9番…」の声に即座に「はい!」と反応した。
ところが1年目は、自身より後ろに立つ中田が指名され続けた。
最初の早明戦については、先輩の知人のチケットを買うために新宿サブナードに並んだ記憶しかない。
なぜ、自分は認められないのか。
自問自答する永友に北島監督が告げたのは、伝統として根付く「前へ」の価値だった。
「先頭に立ってボールを持ったお前があっちへ、こっちへと行っていたら、後ろの人間が迷うじゃないか」
小柄だった永友は、空いた場所へ機敏に動くのが信条だった。
かたや主力の中田は、永友と似た身体つきなのに攻守で果敢に挑んでいた。
北島監督はこう続けた。
「お前がどこにいくのかがわかることで、周りの人間ははじめてサポートにつけるんだぞ」
目の前の壁にまずぶつかる。スペースは探すのではなく自ら作る。
それこそ、永友が北島監督に教わった「前へ」だった。
「社会人になっても思いますが、壁にぶち当たることがまず先。そこから色んなものが見えてくる」
ひとたび信頼を掴み取れば、順当にキャリアを重ねた。
4年目は北島監督に「人間性でまとめろ」と主将を託され、その年の早明戦ではチームの全24得点を自ら記録。1点差で勝った。
よいことばかりではなかった。そのまま学生シーンV3と社会人撃破も期待されながら、大学選手権の準決勝で法大に18-42と敗れた。
のちの日本代表で続けた3年生CTBだった元木由記雄はその日、序盤に怪我をしたまま戦い続けた。
泣き崩れる元木を慰める永友の姿は、まもなく『ラグビーマガジン』の1ページを飾った。
悔し涙にくれたあの日に知ったのは、王者にかかる重圧だった。
「常に勝つことを求められる。明大の主将はその覚悟を持たなくてはいけないとわかってやらせてもらったつもりでしたが…。4年生の時は、楽しいと思うよりも苦しいと思うことの方が多かったです。1年生の時とは違う苦しみですね」
失敗を肥やしにした。1993年度入社のサントリーで、1995年度に主将を任された。学生の頃以上に周りを頼った。全国社会人大会では、10学年上の吉野俊郎の作ったサインプレーを採用した。そのシーズンのうちにクラブ史上初の全国制覇を決めた。
現役時代の終盤は、明大で5学年下の主将だった田中澄憲と定位置を争った。
2018年度の明大で優勝監督となる後輩とはいつもぶつかり合い、 周りから呆れられるほどだった。
引退後はサントリーなどで指揮官となった。その時々でふと、学生時代の苦い思いを噛みしめる。
リーダーには意欲よりも責任感を求める。
「語弊はあるかもしれませんが…。僕が主将を任命する時は、やりたいと思う人より (あえて) そうでない人を推すところがありました。本当に大変だとわかっているので」
いまは横浜キヤノンイーグルスのゼネラルマネージャーだ。
2022年度の明大主将で東京五輪に出た石田吉平は、卒業後の進路にイーグルスを選んだ。 明大へ進んだ息子の利玖(りく)が石田の同級生だった。
親子二代で明大の門をくぐった父は、卒業後に接してきた明大ラグビー部OBにある共通項を見出す。
「いろんなことにチャレンジしてきますよね。やらされるのではなく自分たちで」
100年目の明大は、新時代の只中にあると感じる。
約4年前、休暇で帰宅していた大学1年の利玖が「(はやく)寮に戻りたい」と漏らしたのには驚いた。
1年生が寮を嫌がらない。それが最近の明大なのだろう。
もっとも、どんな時代になっても変わらない、変えてはならないものがあるとも自覚する。
下級生の頃だったか。北島監督が手にした杖で、土のグラウンドへ複数の角度、方向に線を描き、聞いてきたことがあった。
「このなかで、一番、簡単にトライを奪える道はどれだ」
時代が変化しても、答えに変化はない。
「まっすぐです」
文/向 風見也
PROFILE
ながとも・ようじ
1971(昭和46)年3月14日生まれ。宮崎県出身。都城高→明大→サントリー。日本代表キャップ 8。セブンズ日本代表としても10キャップを持ち、1993年開催のワールドカップセブンズにも出場した。都城高校時代は主にFBとして活躍し、高校日本代表に選出。明大入学後にSHに転向。4年時は主将を務めた。サントリーに入社後は主将を務めるなど活躍。1993年10月のウエールズ戦で初キャップを得た。現役引退後はサントリー、キヤノンで監督を務めた。2017年から横浜キヤノンイーグルスのGMを務め、2024年6月1日より15人制男子日本代表チームディレクターに就任