事業承継(世代交代)問題。
一般的にビジネスにおいては、会社などを後継者に引き継ぐ際に生じるさまざまな課題、リスクを指す。財務面、企業文化の継承、事業価値の維持向上などが課題に挙げられる。
高校ラグビー界においても世代交代の問題はある。
後継者をどう選び、どう育てるのか。
チーム文化・人脈をどう継承するのか、もしくはしないのか。
競技力は維持・向上できるのか。
常翔学園を30年超率いた野上友一元監督は、1990年、大阪工大高時代を全国強豪に育てた荒川博司氏から「工大高」(現常翔学園)を引き継いだ。
1990年夏にFWコーチから監督に昇格すると、その後28回の花園出場を果たし、2度の高校日本一を達成。現在のバトンは、平池三記教諭を経て、約7年半コーチを務めたOBの白木繁之新監督に託されている。
東福岡の藤田雄一郎監督は、2012年、花園優勝4回や公式戦113連勝といった戦績を残した谷崎重幸氏からバトンを受けとった。
14年のコーチ生活を経て監督に就任すると、2年目から10大会連続で花園ベスト4。2014年度は初の高校3冠。2022年度には在任3度目となる高校日本一を達成した。
3人目は日本ラグビーフットボール協会で、ユース世代のタレント・発掘を統括する「ユース戦略TIDマネージャー」の野澤武史氏。祖父が創業した山川出版社を継承した経営者の顔を持つ。
高齢化社会・日本の社会問題でもある世代交代。3者3様の継承者による鼎談は、野澤氏が進行役となり、東福岡・藤田監督の就任時の話題から始まった。
逆風からの船出
野澤 事業承継、世代交代は、少子高齢化が進む日本の社会課題で、今回はぜひチームを引き継いでさらに成長させた野上先生、藤田先生の知見を広められたらと思っています。まず藤田先生は、どんな経緯で谷崎先生から監督を引き継いだのでしょうか?
藤田 「いずれは体育教師に」と思っていた社会人時代(JR九州)、週1回は東福岡(母校)に帰っていました。当時は東福岡を倒したいと思っていたんですが、なかなか現実は厳しくて。そんな時、中学の立ち上げにあたって体育教員を増やすというので、谷崎先生から「戻ってきてほしい」と言われました。そこからコーチを14年させてもらって、12年前(2011年度大会)、藤田慶和(三重ホンダヒート)たちが3連覇する決勝戦の朝、部屋に呼ばれました。ミスをしたかなと思っていたら「今日で監督を辞める。しっかり考えてくれ」と。その一週間後に「監督やらせてください」ということをお伝えした、という経緯ですね。
野上 わたしはもともと社会科の教員で、たまたまFWコーチの空きができたというので荒川先生の下で勉強していたんです。そうしたら30歳の時、花園で岐阜工業に負けた次の日の朝、新チームが始まった時に河川敷の荒川先生の専用テントに呼ばれた。同級生でBKコーチの橋爪(利明)もいたんですが、そこで「監督を辞める」といわれたんですね。「先生、早いんちゃいますか」と意見をしたら「ちゃんと出来るからお前らでやれ」と。
野澤 お二人とも前任者に認められてコーチを経験し、その後監督に昇格したわけですね。
野上 わたしの場合、1年目は監督を置かずにFWコーチのわたし、BKコーチの橋爪という体制で始まったんですね。そうしたら生徒に迷いがあったのか、前年度は天皇崩御で茗溪学園と両校優勝(1988年度)したんですが、元木(由記雄)がキャプテンだった年に予選で負けて花園に出られなかった。中途半端なことではいかんとなって、私が(翌1990年の)夏合宿前に監督になりました。
野澤 藤田先生は、バトンを受け取ってからは順風満帆でしたか?
藤田 偉大な谷崎先生から監督を引き継いで、その直後の新人大会の県決勝で、筑紫高校に負けました。それまで谷崎先生が国内80連勝くらいしてたんですが、それを4試合目でストップさせるところからのスタートです(国内連続無敗記録が83でストップ)。その後もベスト8で負けたり、選抜で野上先生に負けたり、なかなか勝利に結びつかなかったですね。
野澤 いまの自分なら、当時の自分にどうアドバイスしますか?
藤田 必要な時間だったと思いますが、当時は「優勝しないとスタートラインに立てない」という自分自身のプレッシャーがありました。就任3年目で優勝はさせてもらうんですが、振り返ると自分のためにラグビーをしていたなと。「監督として認めてもらいたい」「谷崎先生のスタートラインに立ちたい」ということで、選手に不合理なことも強いてきました。自分本位でしたね。
野上 そらそうやわな。わたしの場合は11年連続だった花園出場をストップさせた。コーチから監督になっても、周囲は「野上で大丈夫か」と不安に思っていたみたい。でもわたしはそれを全然感じていなくて、荒川先生に「お前すごいな」と言われたくらいだった。
転機は突然に
野澤 順風満帆でないスタートから、その後飛躍するお二人ですが、転機になった出来事はありましたか?
藤田 なかなか結果が出ず、2部練などハードワークを選手に課してしまう。日中の練習3、4時間は当たり前。そんなときに選抜大会で野上先生に負けて、その1、2週間後に校舎の5階から降りながら「どういう練習しようか」と考えていたら、自分が後ろにいると気付かずに当時のリーダー2人が「今日も練習か」「やりたくない」「またきついだけの練習が始まるのか」と話していたんです。
野澤 それはショックですね。
藤田 ショックでしたよ。情けなくなって、そのまま階段を降りられず、もう一度教員室に戻ったんです。そこで「俺は彼らに何をしてきたんだろう」「ラグビーが好きで東福岡を選んでくれたのに、自分が勝ちたいために不合理な練習をして」と。自分が変わらないとチームは変わらないと思いました。そこからいろんな本を読み漁ったり、同級生に相談したり、OBの選手や指導者に相談したり――。それが転機だと思います。その2人のコメントがあって、そのとき後ろに自分がいなかったら、まだ自分本位のコーチング、ラグビーをしていたかもしれないですね。
野上 そんなんあるよね。自分がふと気付いた時がターニングポイントになるのかな。
藤田 ワールドユースの時に野上先生にかけもらった言葉、覚えてますよ。負けた時に「藤田、そういう時もあるよ」と。それが僕はすごく耳に残ってます。
野上 そらそや。ウチはほとんど勝てへんやん。
藤田 自分が肩肘張っていた時、ふとその言葉を掛けられて、肩の力が抜けました。それでまた東福岡が強くなっちゃった(笑)。
野上 えらいこっちゃ。しもたしもた。
野澤 勝利や敗北がターニングポイントかなと思っていたので、想像と違いました。
野上 わたしのターニングポイントはニュージーランド遠征になるのかな。ずっと全国大会ベスト4が続いていて「この壁、破られへんのかな」と思っていた時、東福岡とかがニュージーランドに行っていて「えらいカッコええな」と。思いきってチームで行ったら、ケルストン・ボーイズとの練習中、自分の頭の中で、誰かのささやく声が聞こえた。「お前の言うとおりやってもラグビー上手くならへんぞ」という。そこでふっと気付いた。それまで俺は片手でパスしたら「何してるんだ」「練習通りにやれへんから上手くいけへんのや」と言っていたけど、ニュージーランドでは「上手くいくことが良いプレーだ」と教えている。
野澤 日本は型を重視しますが、ニュージーランドなどは「パスは通ればいい」「上手くいけばいい」という考え方が主流ですね。
野上 その年のワールドカップで、日本代表がフランス代表に脇の下からパスを通されてトライされ、そこからボロ負けした試合があった。そうか、俺らが「あんなパスしたらいかん」と言ってしまって、あんなパスをするやつにタックルする練習してない、俺らが日本のラグビーを弱くしていたと思った。その日の晩のミーティングで、岡田一平(クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)たちがいた代でしたが「俺の言うことをきいていても強くなれへんぞ」「自分たちで好きにやれ」と言った。ポカンとしてましたが、次の日からボールを動かしたらめっちゃ面白かった。「この方が楽しいわ」と思ったのがターニングポイントかな。
野澤 ふとしたことがターンニングポイントになるにしても、やはり前段階で「悩み続けておかなければいけない」のかもしれませんね。試行錯誤があるからこそ、どこかのタイミングで糧になるんでしょうね。
後継者について
野澤 世代交代でチームを継承すると、周囲の不安が否が応でも伝わってくると思います。さきほど野上先生は「周囲の不安を感じなかった」と仰っていましたが、それは何故ですか?
野上 荒川先生が学校関係や保護者会をコントロールしてくれていたからですね。その上で、グラウンドでは自由に任せてくれてました。それに荒川先生は「元気に楽しくやるのが一番」という考え方で、負けても「お前のやり方は間違ってない」「指導者は試行錯誤の連続や。頑張ってやれ」と励ましてもらえた。注意もしてもらいましたが、とにかくよく褒めてもらいましたね。だから荒川先生が亡くなってグラウンドに来なくなった時、ほんまに寂しかった。誰も褒めてくれないから、本当に一瞬やる気がなくなったくらい。
藤田 谷崎先生の場合は、コーチの時から自分に仕事を任せてくれていました。いろんなことを丸投げしてくれて、いなくなった時に自分でやれるようにしてくれていたんですね。当時は正直「俺ばっかり仕事させて」と思ったけど、いま振り返ると谷崎先生の人脈を引き継がせてくれたり、学校との折衝をいつの間にかやらせてくれるようにしていた。そこは今だからこそ、すごく感じるところです。
野上 我々も、社長さんも、世代交代の時は古い番頭さんや専務がいる。彼らに認めてもらえず協力が得られなくても、「なるほどな」と思って聞いてみるのがすごく大事だと思いますね。そのうちに「なかなかやりよるな」と認めさせる時が、本当の代替わりのなんだろうなと。周囲の目が変わってくるんですよね。
野澤 肩書きが「監督」になったからといって監督になれるわけではなく、周囲がその人を監督(社長)と認めたとき、初めて監督になれるんですね。
野上 周囲の人も、後継者の扱いを変えるように成長していかないといけないですね。指導者の成長こそが会社やチームを成長させるわけですから。
藤田 コーチをしていた14年間、正直に言うと何度も辞めようと思ったし、オファーもいくつか頂きましたが、尊敬する監督・恩師だし、我慢して学び続けたことが今に至っていると感じますね。
野上 わたしの言葉を覚えてくれている藤田先生もそうですが、素直な人が指導者としても伸びていくと思いますね。先代や古い番頭さんからいろいろ言われて、そのときは「自分の方が正しい」と思っても、卑屈にならず、なんでそういう風に言うのかを考えてみたりね。そういう人にはいろんなチャンスが巡ってくると思いますね。
野澤 いま白木監督も常翔学園をさらに発展させようと努力されているところですね。
野上 いまは白木監督が、新監督として張り切ってやってくれています。大阪の公立中学校の先生をやっていたんですが、8年前に呼び戻してラグビー部のコーチもやっていました。
野澤 野上先生は、白木新監督とどんな関わり方をしていますか?
野上 相談はした上で、ほったらかしにしてますよね。「ああせいこうせい」とは言わないです。思うようにやったらいいんです。ただ「そんなんやったらアカンかんぞ」と指摘するところはありますね。
藤田 (東福岡の後継者選びは)現実問題として、考えないといけないですね。
野澤 「東福岡の監督」は誰にでも務まるものではないと思いますが、後継者にはどんな資質を求めていますか?
藤田 グラウンドレベルの指導はスキルに長けていれば出来ると思いますが、マネジメントの部分ですね。保護者会、大学の先生、高校の監督、付き合い、中学リクルート…。そこをマネジメントしていくのが大事で、指導との両輪でいかないといけません。もちろんOBがふさわしいので、そこは試行錯誤しているところです。
野澤 今回の対談、あらためて「悩み続けるからこそ気付くチャンスが巡ってくる」「年上が指摘してくれる素直な人間でいることが大事」と気付きました。「気づける自分」でいたいなと思います。最後に世代交代をする、される人にメッセージをお願いします。
藤田 ひとつは、監督2、3年目は「俺が俺が」という時期でしたが、これもなければいけない時期だと思っていますということ。もうひとつは、「自分は無力なんだ」と気付くかどうかですね。たとえば、生半可なウエイトの知識じゃだめだからそこは専門コーチに任せる、自分はFW出身でBKを知らないのでBKのコーチを呼ぶ――。いろんな人に僕は無力だと認めることだと思います。そして突っ走るところは突っ走る。かならず行き止まりもくる。脱線もある。そこで気付くときがやってくる。――ただ自分としては、頭(こうべ)を垂れる稲穂まではいっていないので、まだまだガンガンいきたい。野上先生くらいになったら頭を垂れだそうかなと思っています。
野上 これからお願いしますという側にしたら、不安や気になることあってもギャーギャー言わないことですね。「お前がそう思ったら、そうやったらええねん」と任せる。だからこそ本人は考えて頑張る。ここで任せられる側が「しんど」「たまらんわ」と思ったらいけないですね。きつい状況でも楽しんでしまえるような人になってほしい。いろんなプレッシャーあるし批判もされるが、それも勉強ですし、そこを乗り越えたら大勢の人を楽しませられると思います。
高校ラグビーの名指導者には、試行錯誤を重ねる靱(つよ)さがあった。深い人間理解に裏打ちされた、人に任せる寛容さがあった。経験と労力の詰まった言葉の数々から、あなたは何を感じ取っただろうか。