僕はこの時期になるといつも、
冷たい雨に濡れた合格発表の、
誰もいない夕暮れの情景を思い出す。
白いボードを濡らす優しい雨は、僕の流した涙と共に、今も心の中に沁み込んでいる。
以前、ラグマガにも書いた『あの日』が僕の人生を変えた。
2浪して早稲田文系全学部を受け、それが最後の発表の日だった。
これで落ちたら働く。そう決めていた。
喜びに満ちた合格発表の昼間を避け、最後の運命の日は、文字が見えなくなる日没前の夕刻を選んだ。
というのは、東大受験の発表で苦い過去があったからだ。
その日は、すでに文字が判読できないほど暗くなっていた。その時、懐中電灯を持って発表を見に来た受験生がいた。僕の様な変わり者が他にいた事にまず驚いた。
そして彼は親切にも、『暗くて見えないですよね』と言って、懐中電灯のピンポイントの灯りで、僕の受験番号を一緒に探してくれたのだ。
僕の気持ちとしては、正直、自分の受験番号が載ってないことを確認するために来ただけだった。
彼は、すでに合格の喜びに満ちていて、溢れ出る親切心が、僕には余計に辛く痛かった。
その経験があって、合格発表を見に行く時間は薄暮になった。
そして早稲田、静かな雨の中で傘もささず濡れながら、初めて自分の受験番号を見つけた感慨は、浪人した人間でないと分からないと思う。
深い海の底、圧迫された水の中で一粒の真珠を見つけた喜び。
歓喜ではない。しみじみとここに至るまでの長い道のりに、ただ、ただ浸っていた。
3度の受験を経て、挫折を繰り返し味わい、それでも前を向いていた。
そんな過去が堆積して、今の僕がある。
ちなみに浪人時代、NHK「青年の主張」に投稿した若き文章も没になっていた。
人生は何が起こるか分からない。何が良いのか、何が悪いのかも分からない。
僕は2浪して本当に良かったと思っている。両親には心配をかけたけど、自分で生きたい道を自由に歩ませてくれた。
2浪しなかったら、大西鐵之祐先生に巡り会うことは無かったし、大西先生が監督でなかったら、僕のような2浪の素人が、ラグビーエリートが集まる早稲田で、伝統のジャージを着ることは決してなかっただろう。
僕のような無名の雑草が卒業して40年経ってなお、このようなコラムに投稿できるなど、あり得ないことである。
大西先生は日本代表監督などを歴任された後、ワセダ復活をOBに請われて、病を患っていたにもかかわらず、一年だけグラウンドに立って指揮を執った。命を賭け、胸にはニトログリセリンを忍ばせていた。
その稀有な一年が、僕が2浪したことにより、4年生になった年と重なるのである。不思議な、そして幸運な巡り合わせであった。
夢が叶い、第一志望に合格した君、不本意ながら、第二志望に行くことになった君、自分の受験番号を見つけられなかった君、学生の道に進まず、社会人になる君、様々な人生が、これから始まる。
悔し涙を流した君へエールを贈りたい。
君たちの前に現れた、そのすべての現象を明るく、前向きに受け取ることができるかにかかっている。
ネガティブな現象であれば、それが君たちを成長させるエネルギーになるはずだ。
人は成功よりも、失敗から多くの事を学ぶ。その悔しさを糧に、その情熱を次に生かせるかにかかっているのだ。
大谷翔平選手も、かつてない試練に立たされている。
全幅の信頼を置いていた腹心に裏切られ、長年すべてを任せ、野球に集中できた環境が一瞬にして崩れてしまった。
変幻自在に曲がる超高速の球を、一瞬で思う所に撃ち返す。この競技がどれだけデリケートなスポーツか。
自分の持てる力を発揮するには、心の安定が必須事項になるはずだ。雑念を払うということは、そう簡単な話ではない。
大谷選手は、水原通訳が側にいるだけで、どれだけ安心し、リラックスして野球に集中出来たか。その代役はすぐにできるはずもない。
幸い、家庭では真美子さんという無二の存在が心の支えになってくれる。ただグラウンドでは、この異常事態に一人で向き合い、一人で乗り越えなければならない。誰も助けてはくれない。
大谷選手はこの騒動で、野球とはまた違った舞台に立っている。人生の荒波の中に浮かぶ、木の葉のような小舟に一人乗っている大谷選手に、仏教でいう、この言葉を贈りたい。
「三方死」
右も左も後ろも死。ただ、前に向かってすすむことだけが、唯一の生きる道だ。
【著者プロフィール】
渡邊 隆[1981年度 早大4年/FL]
わたなべ・たかし◎1957年6月14日、福島県生まれ。安達高→早大。171㌢、76㌔(大学4年時)。早大ラグビー部1981年度FL。中学相撲全国大会準優勝、高校時代は陸上部。2浪後に大学入学、ラグビーを始める。大西鐵之祐監督の目に止まり、4年時にレギュラーを勝ち取る。1982年全早稲田英仏遠征メンバー。現在は株式会社糀屋(空の庭)CEO。愛称は「ドス」