最初は遠くから眺める対象だった。いかつい風貌から、厳しい人なのではと勝手に思い込んでいたからだ。
緊張しながら挨拶した頃には、この世界に潜り込んで数か月は経っていた。ちょうど取材に出かけた早大ラグビー部の上井草グラウンドへ撮影の立ち合いに来ていた田村一博さんへ、「あの…」と名刺を渡した。
秩父宮ラグビー場近くの「ベローチェ」で企画を提案させてもらったのは、そのさらに先のことだ。退店する頃には「向さん、この後はお忙しいですか」と聞かれた。新大久保の韓国料理店へ誘ってもらった。
ラグビーマガジンの編集長だった田村さんは時に仕事に厳しいことはあっても、対人関係で厳しい態度を取ることなど滅多にない人だとすぐに感じた。
誰が呼んだか「猛獣使い」。書き手やカメラマンには、小手先の「社会性」よりも、はた迷惑にならない類の情熱や、なにかしらの異質性を求める向きがあったような気がする。そうでなければ、若いうちからひと通りの同業者に嫌われるかわいげのない小僧が、かくもチャンスをもらえるわけがない。
その優しいはずの田村さんを、勝手にフリーのラグビーライターを名乗って現場を出入りするようになった筆者は何度も落胆させた。
「あの時、フミヤに出会っていなければなぁ…」
少しずつ本誌で書かせてもらい、2011年開設の『ラグビーリパブリック』で日々の取材を報告できるようになり、信じられないくらいに食事をごちそうになっていたうえ、大小のトラブルが起こすたびに、この人を矢面に立たせていたのだ。
まだ「向君」と呼ばれていた頃、手伝わせていただいた案件で誤りがあった。田村さんは「向君が担当したところはちゃんとしていると思って、誰も確認しなかったんだよな」と断罪しなかった。ちょうどその席にいたスポーツライターの藤島大さんは、こんな内容で呟いた。
「ミスを部下のせいにしない。いい上司だね。なかなかいない」
関係各所からの筆者へのクレームが田村さんを介して届くようになったのは、いつからだろう。何かあるたびに、「まるで俺がフミヤの後見人のように思われるのは困る」と言われた。確かにその通りだと感じた。
向風見也の態度が気に入らない、といった類のマスコミ関係者からの通達へは、「そのフミヤにギャラを払っているこっちの身にもなって欲しい」。これがだめを出す口火となったのだろう。ここぞとばかりに、田村さんから直近の原稿について指摘を受けた。
問題が生じるたびに田村さんへ、必要に応じて相手方へ謝罪し、心機一転、パソコンへ向かい、諸先輩方の集う酒場へ出かけては「まーた、俺たちからむしり取って」とたしなめられた。遊ぶように働いた。
20代の頃、大学ラグビー関連の臨時増刊号向けの記事を書くことがあった。別な担当者に託されていた。
その原稿の執筆中に鳴ったガラケーを取ると、田村さんが「向君、飲みに行こうよ」と言うではないか。
責任を果たしたかったと同時に、好きな先輩の誘いは断りたくなかった。遅れてでも参加すべく「…何時からですか」と応じるや、「あー! まだ書き終わってないのにサボろうとしたな!」。この手のトラップには、2024年までに100回以上は引っかかっている。
本人が「自分でも、いま本当のことを言っているのか、嘘を言っているのか、わからない時がある」と自任するほどの演技力のみならず、万事の本質を看破する資質が田村さんには備わっている。少なくともそう見える。だから、冗談が冗談に聞こえないのだ。
日本代表がウエールズ代表を初めて下して数か月後にあたる2014年の秋。開催中だったトップリーグの試合を記者席で観戦していた午後のことだ。ハーフタイムになったあたりか、隣に座っていた田村さんが唐突に言う。
「フミヤ、彼女と別れた?」
驚いた。その日の朝に関係を終わらせるという話をされたばかりだからだ。
「何でわかったんですか?」
「うーん、何となく」
最近は呆れられる。
「え、フミヤ、もう40(歳)過ぎたの? …何も成長してないじゃん!」
失敗の尻拭いをしてもらったうえ、些細な変化に気づかれるほどに向き合ってもらったにもかかわらず、「普通に書きなさい」という普遍的な助言を活かしきれないうち、4度のワールドカップを通過してしまった。
日本代表が南アフリカ代表などから歴史的3勝を掴んだ2015年のイングランド大会時は、予選プールの途中で渡英してきた田村さんから臨時増刊号で山田章仁選手のリポートをまとめるよう依頼された。感慨を顔に出したら「気持ち悪い」と突っ込まれた。
2019年の日本大会時は、静岡のエコパスタジアムのメディアルームでいつも通りの日常があった。報道陣に提供される食事の列に並んでいるところへ、「フミヤ、人よりも多く摂ろうとしているだろう」という趣旨の「かわいがり」。ジャパンが難敵アイルランド代表を打ち崩すのは、それがあった数時間後だ。
2023年のフランス大会までには、約8年間ナショナルチームを支えてきた複数のスタッフが「向風見也は田村さんのおかげで生きられている」という構造を理解していた。
当時の藤井雄一郎ナショナルチームディレクターは、ヘッドコーチだったジェイミー・ジョセフと親交を深めたサニックスで監督を務めたことがある。エッジの効いた戦力を擁して軽快な展開スタイルを貫くそのチームを、田村さんは長らく追ってきた。
雑誌を統括するのが主業務のはずの編集長にあっては膨大な活動量、執筆量を有していた田村さんは、よく「皆(他の同業者)が取材するところばかり取材してどうするんだ」と口にしていた。確信に基づく偏愛が豊饒な物語を掴めるのだと、紙面やウェブで証明してきた。
「何か、気分が悪い」
花園ラグビー場の執務室で田村さんが漏らしたのは、全国高校ラグビー大会の3回戦があった今年の元日だ。
複数名で帰路につくさなか、同行者に「顔色もよくない。検査に行った方がいいですよ」と言われて難色を示されていた。
これが、編集長を辞める前の田村さんに会った最後の日となった。
数日後、LINEで本人が編集部宛てに出した申し出を受け取った。
1月25日発売の『ラグビーマガジン3月号』では、本来、田村さんが書く予定だったであろう箇所を含む複数のページを任せてもらった。
横浜キヤノンイーグルスのジェシー・クリエル選手が怪我で離脱する前にインタビューし、そのストーリーを田村さんが大切にしていた『解体心書』に寄稿した。
リーグワン特集で話をまとめた埼玉パナソニックワイルドナイツの小山大輝選手は、前所属の大東大時代に田村さんと取材したことがあった。
ラップトップを開くたび、これは田村さんならどう表現するだろうかと考えたり、田村さんとのどうでもよいやり取りを思い出したりした。
「『ラグビーマガジン』は、ラグビーが好きな人が、ラグビーが好きでよかったな、と思う雑誌でなきゃ」
あ、これはどうでもよくない。
久しぶりにLINEが届いたのは校了後だ。<今月号、たくさんやってくれたんだって。ありがとう>に続き、やがてフリーの書き手として現場に戻る旨を伝えられた。
<フミヤさんに弟子入り>
弟子にしてはあまりに偉大なので、友達からでお願いします。