負けた。一夜明けた。即、練習をする。反省はするが、感傷には浸らない。
東海大大阪仰星である。
新年3日、桐蔭学園に敗れる。24-34。103回目の全国高校ラグビーの8強戦だった。
新チームでの始動は翌4日、枚方(ひらかた)にある同校グラウンドで始まった。
朝9時、メンバーではなかったものは校内の清掃からスタートする。メンバーが合流する。大阪市内のホテルから電車移動をしてきた。その後、初練習が始まる。卒業を控えた3年生たちはミーティングに入った。
そのことを聞いて、藤島大は言った。
「すごいね」
筆や解説でラグビー界に多大な貢献をしている藤島も舌を巻くスタートである。
湯浅大智はこともなげに話した。
「7日まで予定を入れています。やらない理由はありません」
仰星の全国大会のスケジュールは決勝の日から逆算する。湯浅はOB監督で保健・体育の教員でもある。
清掃から始めた理由も説明する。
「もう1回、綺麗にする、ということです。終わっている所を見つめると残っている所が見えてきます。感性が磨かれるはずです」
年末に大掃除は済ませている。
練習は同じメニューを1時間以上やった。試合時間を超える。6人ひと組で転がされたボールにセービング。オーバー。球出し。残りの3人が10メートルほどの幅の中でパスをしながら上がる。ラグビーの基本動作を入れ、トライへの最短になるタテ突破を意識させる。
グラウンドのタッチライン100メートルに6人のグループがたくさんでき、逆のタッチラインまで行っては戻ることを繰り返す。しんどい。疲労は蓄積されてゆく。
その練習を指揮しながら湯浅はつぶやいた。
「原点回帰ですね」
高3になる1999年春、近畿大会で伏見工(現・京都工学院)に12-19で敗れた。
湯浅はFLで主将だった。
「すぐにこのグラウンドに戻って来て、延々とこの練習をしたことを覚えています」
監督は土井崇司。現在は東海大相模の中高の校長である。
当時のグラウンドは土だった。
「痛かったですね」
今の人工芝に比べれば、体にかかる負担はその比ではない。
仰星はグラウンドを縦割りしての攻めや数時間に及ぶミーティングに代表される理論的なラグビーが取り上げられるが、実は泥臭いこともいとわない。湯浅は創部者で恩師の土井からの教えを忘れてはいない。
その1999年の冬、79回目の全国大会で仰星は初優勝を遂げる。決勝戦は埼玉工大深谷(現・正智深谷)に31-7。トンガ人留学生2人を擁した相手に対し、こぼれ球にいち早く寝込み、つないだ。
この四半世紀前の栄光のあと、仰星は優勝を積み増し、6回とする。この数字は歴代4位タイ。湯浅は選手、コーチ、監督として、そのすべてに絡んでいる。
その仰星の伝統を継いでゆく選手の中に、伊藤龍徳(りゅうとく)と幡享祐(きょうすけ)がいる。4月に新3年生になる2人は、ともにバックスリーが持ち場だ。
伊藤の父・紀晶(のりあき)と幡の父・篤志は同志社と大体大の主将だった。1992年のことである。30年以上前、この対戦は関西リーグの優勝を占う花形カードだった。
FBだった伊藤は慶應との定期戦でアキレス腱を痛めた。大勝100点ゲームだった。最後の秋、試合出場は0。自ら悲劇を知る。
伊藤を欠いた同志社と大体大の激突は11月29日。旧の長居陸上競技場だった。
その3日前の26日、事故は起きる。大体大の部員の車が暴走車に激突される。亡くなったのは同じ4年生でFBだった松浦文雄。この同志社戦に出場する予定だった。
あだ名は「ヤンデバ」。やんちゃな雰囲気に明石家さんまに似た口元からそうついた。黄色の手ぬぐいを汗止めの鉢巻き代わりにして、練習で汗を流していた姿が心に残る。
試合は21-8で同志社が勝利する。この年、同志社は関西を制するが、得失点差13はもっとも詰まった試合になった。試合後、松浦の遺影を抱え、FL幡はスタンドにあいさつをする。涙が止まらなかった。
幸運にも生ある2人はそのつとめを果たしている。伊藤は神戸製鋼、幡はスポーツニッポンと新卒で入った会社で、息子たちがラグビーに専念できるよう働き続けている。
全国大会後、仰星は新チームで近畿大会の府予選に臨んだ。1月28日、2つあるブロックの決勝で大阪桐蔭に0-7で敗れた。
本大会には敗北した仰星も出場できる。この75回大会から様式が変わったが、大阪は前年と同じ4校出場になった。参加枠は2つ減の14。2府4県すべて2枠となり、前年度優勝と開催の府県に1枠が与えられる。
仰星は雪辱の機会を与えられた。同時に25回目の選抜大会出場への道筋も残した。
湯浅は言う。
「ほかのチームとはちょっと異質であり続けたいなあ、と思っています」
それが、仰星の矜持である。
その系譜に連なる2人の息子たちは、この決勝戦も全国大会に続き、25人の試合出場メンバーに名を連ねることはなかった。
今や全国からタレントが集まる仰星で、この25人に入るのは難しい。
とはいえ、高校生活はあと1年しかない。そして、生きている。生かしてもらっている。
その幸せを感じ、自らに矢印を向け、高め、進んでゆく。それはラグビーができている新高3生全員に当てはまることと言えよう。