この仕事の喜びのひとつに、「再会」がある。
以前取材した選手に、時が経ってからもう一度会う。
特に高校生は、たった1年でも体格や風貌は大きく変わる。成長した姿を見られると、こちらもなぜか嬉しくなる。
今回の花園では、小野愛斗と再会できた。
福島は勿来工業高校の3年生。少人数校から選抜された選手たちが出場する、「U18合同チーム東西対抗戦」に出場した。通称「もうひとつの花園」だ。
最初に取材したのは昨年の4月。勿来工が実行委員会の推薦枠で初めて出場した全国選抜大会のあとに、同校を訪ねた。
部員は15人。新2年生は一人だけだと事前に聞いていた。
練習をグラウンドの脇から眺める。端の方で足元がおぼつかない、線の細い少年がいた。横にいた選手から、立ち位置などのアドバイスをもらっている。
その一人はこの子だろうと見当がついた。
小野は1年生の夏頃まで空手部だった。過去には全国大会の出場経験もある。ワケあって退部すると、副担任をしていたラグビー部の小松傑監督に声をかけられた。
「ラグビー部に力を貸してくれないか」
小野は回想する。
「部員が足りなくて困っているということでした。ガタイもよくないし、自分でいいのかなとも思いましたけど、少しでも力になれればと」
同級生がゼロの中、仮入部のような形で15人目の部員になる。右も左も分からぬまま、加わって1か月後には選抜大会への出場が決まった。
WTBで出た試合は完敗。尾道に0-107と叩きのめされた。
それでも、その試合を機に小野は入部を決心した。何点取られても逃げない3年生たちの姿に惹かれたからだ。
「どんなにミスしても、どんなに負けていても、先輩たちが"切り替えよう"と。積極的に声を出してくれました」
チームはそのままの勢いで、25年ぶりに花園出場も決める。小野はその舞台にも立った。
偉大な先輩たちが卒業すると、唯一の2年生だった小野はキャプテンを任される。
「ずっと引っ張ってきてもらったので、いざキャプテンになった時に、去年のキャプテンが感じていた重圧を知りました。1、2年生とどう関わるべきか、去年のような良い雰囲気のチームを作るにはどうしたらいいか、ずっと考え続ける日々でした」
ラグビー経験も浅い。相談できる同級生もいない。プレッシャーに押し負けそうになった日もあった。
そんなタフな環境で過ごした小野を、小松監督は「僕だったら絶対に辞めてる。本当にすごい」と褒める。
いろんな人の支えがあったと、小野は言った。
「先輩方が仕事休みの日に来てくれたし、小松先生が一緒にチームを引っ張ってくれました。両親の存在も大きかったです。はじめはラグビー部に入ることを反対していたのですが、やるなら最後まで徹底的にやり通せと言ってくれました」
懸命な勧誘活動で部員を集め、2年生8人(+マネージャー3人)、1年生18人と再び単独校としての出場を叶える。しかし、花園予選は郡山北工に0-21。初戦敗退に終わった(春は0-72で敗れていた)。
ただ、もうひとつの道が開けた。コベルコカップでの活躍が評価され、もう一度花園の舞台に立てることが決まったのだ。
「去年は第3グラウンドでした。なので今回、第1グラウンドに立てたのは初めてで。雰囲気も違くて緊張しました」
メンバー表を見て驚かされた。あの時は線が細くてなかなかボールに絡まないWTBだったけれど、2度目の花園では一番体を張らねばならぬLOで花園の舞台に立っていた。
「今日が初めてのLOでした。どうしたら分からないこともあったけど、選ばれたからには最後まで全力を尽くすしかない。できないとは言っていられませんでした」
勿来工でも、先輩たちが抜けてからは主にNO8だった。空手の経験から、小松監督が転向を勧めた。
「1対1で体を当てるのは慣れていたので。それでも最初は怖かったです。でも何度か練習試合を経験して、タックルの楽しさも知れた。NO8という相手の視線を集めるポジションを務められたのは光栄でした」
卒業後は金属を削る工具を製造する「タンガロイ」に就職する。本社はいわき市の好間(よしま)工業団地。ラグビーを続ける予定は、今のところない。
約2年間の短いラグビー人生だったけれど、「良い経験でした」と清々しい表情を浮かべた。
「できる限り練習や試合に顔を出して、後輩たちの力になりたいです」
自分が先輩たちに支えてもらったように。今度は自分が後輩たちを支える。