負けたのは大阪である。その経験を持って、挑むのもまた大阪である。
多田光希(こうき)の高校ラグビーは年末の12月30日に終わった。
高鍋は佐賀工に7-52(前半0-33)。103回目の全国大会の2回戦だった。開催地の花園ラグビー場は東大阪にある。
多田は左PRで先発した。サイズは177センチ、101キロ。その大きな体をもってしても、Aシードの佐賀工は越えられなかった。
「壁は高かったです。当たっても飛ばせず、タックルしても倒れませんでした。ただ、後悔はありません。やりきりました」
多田は潔かった。褐色の肌と黒い目が学校のある南国・宮崎に生まれ育った証明になる。その温暖な地から、3か月ほどすれば、大阪にまた戻って来る。関西大学に入学する。略称は関大(かんだい)である。
多田は指定校推薦で経済学部に入る。評定平均値は4.5をとった。
「すごい? 大したことはありません」
うかれることはない。4年間のキャンパスは大阪の吹田(すいた)。ラグビー部が練習するグラウンドもその中にある。
「2年の時、監督に、関大どうや? ときかれました」
監督は檜室(ひむろ)秀幸。保健・体育の教員であり、ラグビー部のOBでもある。
「多田は日本代表になる可能性を秘めていると思います。タックルは強く、ボール・キャリーもいい。スクラムでも、強い佐賀工に押し負けることはありませんでした」
もっとも目を引くのはフィットネスだ。
「ブロンコでは選手52人中4番でした。FWではもちろんトップです」
ブロンコはタイムが短くなってゆく中でグラウンドの往復を繰り返して計測する。多田はFL以上のスタミナを誇る。
能力の高い教え子を世に出したい、という親心が檜室にはある。福岡大では体育を学び、その大学院も出た。母校や九州を思う気持ちはあるが、多田には関西でもまれてほしい。関大なら京産大や天理大と戦える。スクラムは学生屈指である。
幸いにも関大には高鍋の出身者がいる。新4年生の松尾俊祐。ポジションはWTBだ。
「彼も自力で入りました」
檜室は説明する。松尾はシステム理工学部。多田にとって先輩がいるのは、ラグビーのみならず、学生生活を送る上でありがたい。
関大は昨秋のリーグ戦は6位だった。入替戦を回避した。前年は最下位8位。新監督に佐藤貴志を迎え、チームは成長の途上にある。佐藤は神戸Sなどでの現役時代、SHとして日本代表キャップ4を得ている。
昨年、関大は創部100周年を迎えた。60回目を迎えた大学選手権が始まったのは1964年度。4校制だった第1回大会に関大は早大、法大、同大とともに「オリジナル4」として参加している。その紺と白の段柄ジャージーの名門に多田は仲間入りをすることになる。
競技開始は高校から。都農(つの)の中学時代はサッカー部だった。その豊富なフィットネスの下地は同じ蹴球で磨かれた。
「高鍋に入ったら、選択肢のひとつでした」
ラグビーは代表的な部活であり、その創部は1947年(昭和22)。この103回目の全国大会は13年連続31回目の出場だった。
全国大会の最高位は4強。61回大会(1981年度)で優勝する大阪工大高(現・常翔学園)に6-12。輩出した日本代表は3人いる。SHだった小西義光はキャップ23、CTBの金谷福身は同12。ともに1980年代に活躍した。WTBだった長友泰憲はキャップ9。現在は現役時代を過ごした東京SGの普及兼プロモーションを担当している。
「最初はルールがわかりませんでした。でも監督や経験者の同級生がめっちゃ教えてくれました。コンタクトも意外と楽しかった」
入部時の体重は78キロ。今は12人になった同期で2番目に大きかった。必然的にフロントーに行かされる。
「しんどかったです。移りたかったけど、人がいません」
タイヤ押しなど自主練を最低30分は課した。2年でリザーブになり、3年で定位置を確保した。
体重を20キロ以上増やすために、祖母の弘子は食べやすい鍋を作ってくれたりした。
「ありがたかったです」
自宅から都農の駅までの日々の車送迎も祖母がしてくれた。JRに乗り、南に下れば、10分少しで高鍋の駅に着く。
「3年間、長く感じたこともあったけど、今振り返ると短かったなあ、と思います」
楽しかったのはウエイトトレ。終わってからみんなと会話する時間も含めてである。
大阪では初めて一人暮らしをする。関大にはラグビーの専用寮がない。
「自炊は自分のためになる。カレーやオムライス、炒飯など簡単なものは作れます」
チームでは昨年から佐藤が主導して、練習後の補食も始まっている。
「入部したら、まず体作りをしっかりして、大学でも通用するようにしてゆきたいです」
多田と同じ左PRは宮内慶大がいる。東福岡出身の新4年生だ。フィールドプレーがうまく、リーグワンから熱視線を浴びる。その同じ九州出身の先輩を仰ぎ見て進みたい。
大学は昨夏のオープンキャンパスの時にまわってみた。2年時には全国大会時に人工芝グラウンドで練習しただけだった。
「マジでデカかったです。都会です。これからの生活が楽しみです」
最後の試合はやり切った。だから、情があって、食いだおれの大阪を嫌いになってはいない。大学の4年間をかけ、ここを出世の街に変えてゆく。