大学1年生のFLや元日本代表監督が葬儀に参列した。
出棺のときには、教え子たちが東海大学ラグビー部の部歌で送った。
それだけで、人生の濃さが伝わってくる。
12月21日、和泉武雄さんが天に召された。
現役時代はFL。ラグビーに生き、7番の動きを追求した。12月15日に77歳になったばかりだった。
和泉さんは愛媛・松山東高校から早大に進んだラグビーマンだ。
大学2年時からFLとして活躍した。大学4年時の1968年度には大学日本一のメンバーになった。
1969年1月5日に秩父宮ラグビー場でおこなわれた第5回全国大学選手権の決勝、慶大との一戦に7番で出場。
14-14の引き分けで両校優勝となった試合で、トライを奪うなど活躍した。
早大卒業後、名城大農学部の研究生となった。その後、就職する。
職を転々とする間、早大ラグビー部のコーチを10年間務め、東海大ラグビー部監替を10年務めた。
家業を継ぐため故郷の松山に戻ってからは、母校の正門前で造園業(和泉明治園)を営んだ。
グラウンドに足を運んでは、後輩たちの練習を見て、気がついたことがあれば声をかけた。
20年ほど前、50代後半に胃がんの手術を受けたものの、その後は元気にしていた。
しかし今年に入って肺にがんが見つかり、秋に手術を受けた。
10月29日におこなわれた松山東高校の花園予選には足を運んだ。
11月下旬に再入院し、退院。亡くなった日は、通院予定の日だった。
お正月のOB戦・OB会にも「出席」の返事を出していた。
急な逝去だった。
愛媛・新田高校出身。東海大在学時に和泉さんの薫陶を受けた向井昭吾さん(現・花園近鉄ライナーズ ヘッドコーチ)は、今回の訃報を受け、すぐに松山へ向かった。
日本代表キャップ13を持ち、代表監督も務めた向井さんは、故人の指導をよく覚えている。
「特にFLについては厳しかったですよ。ただ、その中に愛情があった。時々見せてくれる笑顔が忘れられません」
和泉さんが尊敬していた大西鐵之祐先生の自宅に連れていってもらったこともある。
「早稲田ラグビーの考え方や文化がとても刺激になりました」
現在早大ラグビー部の1年生、髙橋松大郎(まつたろう)は、松山東高校時代に和泉さんの指導を受け、赤黒の空気やカルチャー、歴史を教わった。
一浪して早大に合格した髙橋は入学した直後、「昔のビデオを見せてもらったり、話を聞いたり、大西(鐵之祐)先生の本を何冊も貸してもらいました」と和泉さんとの日々を振り返った。
髙橋は、上井草グラウンドの一角にある早大ラグビー部伝統の練習場、『綱のぼり』にぶら下がる。
スローイング練習用のリングが付けられた電柱へのタックルも、繰り返しおこなう。
和泉さんは、早大ラグビー部に昔から伝わる伝統的な練習法も教えてくれた。バックローに必要な『8の字の足の運び』も仕込んでもらった。
新年1月2日、OB戦が予定されている。松山東高校の校庭は、和泉さんが暮らしていた自宅の目の前だ。
コロナ禍で学校への立ち入りが禁止されていた間も、自宅の2階から練習を見守ったりもした。
故人との多くの想い出が詰まった場所には毎年、現役、OB、関係者など100人ほどが集まる。