埼玉の野球少年だった河田和大が甲子園をあきらめたのは、2012年の夏だった。
スポーツ推薦で栃木県内の私立高野球部へ入ったら、「始発で(学校に)行って、終電で帰る」という暮らしが待っていた。1年生は雑用もあり、心身が疲れた。
もっともつらかったのが、いくら労力を費やしても目標が遠く感じたことだ。
入部間もない7月のことだったか。レギュラー選手が足利市内の大会を初戦敗退で終えたことがあった。
気力は、限界に達した。
「行ってみるか」
少年野球時代のコーチに声をかけられたのは、部活も学校も辞めて自宅で過ごしていた頃のことだ。
出かけた先は埼玉の熊谷ラグビー場。ヤマハ発動機ジュビロの試合を観た。国内最高峰だったトップリーグの公式戦だ。
「うわ、いいなと思って。身体と身体がぶつかる音に衝撃を覚えて…」
道を定めた。例のコーチから、深谷高ラグビー部で当時監督の横田典之(現・熊谷高)を紹介してもらえたのもそのタイミングだった。学習塾に通い、深谷高の入試に受かった。
2、3年時、近鉄花園ラグビー場(現・東大阪市花園ラグビー場)での全国大会に出た。この国のラグビー界でいう甲子園のようなものだ。
卒業後は拓大に進んで楕円球を追った。最上級生には、やがて日本代表を支える具智元がいた。スクラムを最前列で組むPRで、2人揃ってレギュラーを務めた。具は右、河田は左だった。
3学年上の「ジウォンさん」は、熱心に助言してくれる優しい先輩だった。同部屋だった寮では、よくお菓子を勧められた。
「チョコ、食べる?」
キャリアを重ねるうち、社会人になってもラグビーがしたくなった。2020年に入ったのは、なんとヤマハだった。最初に覚えたのは、驚きだった。
「(学生時代といまでは)スピードも、コンタクトの強さも、練習内容も違う。1年目は、試合に出られるイメージは全くなくて」
このチームでは、スクラムにスタイルがあった。今秋まで約7年も日本代表のアシスタントコーチを務めた長谷川慎氏が、2011年度から約6年、在籍し、独自の型を築いていた。
ここに適応することが、河田が光を見出すための第一歩となった。
ヤマハ発動機ジュビロが静岡ブルーレヴズに生まれ変わった2021年。河田は、長年にわたり主力の右PRを担う伊藤平一郎にスクラムセッションの振り返りを手伝ってもらった。
HOとの密着の仕方、足の位置、腰の高さ…。クラブに根付く組み方の正解と照らし合わせ、修正点を指摘された。
特に意識した点のひとつは、「横の壁」だ。
「(背番号でいう)1、2、3番の横のパックが一体化してないと。それができていれば押せるし、ちょっとでもずれていればその部分を突かれて押される。横の壁は、よりいっそう、意識しています」
両PRとその間に挟まるHOの最前列3名が、所定の手順を踏んで密着するのが是だという。
「…こうして、1日ごとの修正点を実践していったら、自分の型というものができた。そこからはスクラムに自信を持ち始めて…」
2022年1月に発足のリーグワンで、公式戦デビューを果たした。身長172センチ、体重102キロと小柄も、スクラムでの強靭さにしぶといタックルが買われて不動の主戦級となった。
懸命に走るわけを聞かれ、冗談交じりに言う。
「練習中から意識しているんですよ。スクラムを組んだらすぐ次(のプレーに)行く、と。それが試合に現れているのかなと。あとは、まあ、止まっていたら先輩方に怒られるんで」
ブルーレヴズは今季、体勢を刷新。直近のワールドカップが終わるまで日本代表のナショナルチームディレクターだった藤井雄一郎が監督となり、アシスタントコーチとして古巣へ戻った長谷川と温故知新の趣を醸す。
長谷川が田村義和アシスタントコーチとともに、スクラムをはじめとしたFWのセッションを指導。藤井は従来と異なるワイド攻撃をインストールする。
12月9日の開幕から、それぞれニュージーランド代表経験者を3名ずつ擁する東芝ブレイブルーパス東京、コベルコ神戸スティーラーズを相手に2敗。それでも河田は「自分たちのやりたいことができている部分が多いかもしれないです。勝ちへのイメージができている」。特にスクラムで手ごたえをつかんだ。スティーラーズ戦では、対面に「ジウォンさん」を迎えながら押し込むことが多かった。
「感慨深いです。はい」
次はディフェンディングチャンピオンを迎える。12月24日、大阪・ヨドコウ桜スタジアムでクボタスピアーズ船橋・東京ベイと対峙。藤井はこうだ。
「1、2戦目と、強敵を相手に学んだことがある。次は、勝つ。セットピースなど、やることをしっかりとやれればいける。これまでは1回も(戦前に)『勝つ』とは言ってないけど、今回は勝つと思いますよ」
27歳の背番号1は、その先も見据えて言う。
「チームでトップ4に行って、優勝したいですね」
最初の高校を退学して熊谷に出かけた時、主将だった三村勇飛丸氏。日本代表でも活躍する五郎丸歩氏といったその時代のヤマハの看板選手と写真を撮ってもらった。いまでも部屋で持っている。