開口一番、「生きてますよ!」。武者大輔は、何度も密集にねじ込んできた顔をほころばせた。
11月24日、都内で取材に応じた。リーグワン2部の日本製鉄釜石シーウェイブスに加わり、2季目のシーズンを間近に控えていた。
最初に口にするのは、長いトンネルを抜け出した手応えについてだ。
「先週、先々週と、練習試合に出たのですが、やっと自分のプレーができるようになった。やっと、見せられるなと」
東北の生まれだ。宮城県にある亘理がぎゅうラグビースクール少年団、亘理中、仙台育英高を経て、上京すると過去日本一3度の法大で1年目からレギュラー入り。2年目のオフの帰省中に東日本大震災に遭い、避難所での生活を経験しながら、最終学年時には主将を任された。
タックルで信頼をつかんだのだ。現在の公式サイズは身長177センチ、体重99キロと、一線級にあっては大柄ではない。それでも、鈍い音の鳴る一撃は異彩を放った。
当時最高峰のトップリーグに参画したのは2013年。向こう6季、リコーブラックラムズ東京のFLとして刺さりまくった。代表キャップをつかめずして、歴代の日本代表勢から恐れられた。
近年はけがに泣いた。2019年に加入の三菱重工相模原ダイナボアーズでは、在籍3シーズン中に2度も長期離脱。結果的に最終年度となった21年度も腕の骨折に泣いた。
「…そして、全くプレーできずにシーズンを終えてしまった。試合での貢献度が少なかったことで、チームから解雇されました」
釜石に移ったのは、高校の先輩でもある須田康夫ヘッドコーチから誘われたためだ。シーズン中は、家族を相模原の自宅へ残して単身で暮らす。故郷の近くで戦えるのは、嬉しい。
「東北に育ててもらった身。還元できればと。けがでプレータイムがないなか、引き取ってもらえた」
その年、計10試合に出場。徐々に感覚を取り戻し、いまに至るのだ。
チームにはラグビー専業のプロ選手、近隣の複数企業や自治体に勤める社員選手が混在する。責任企業の支援が手厚い上位クラブとは、趣が異なる。武者は、この難しい条件を受け入れて戦う。
「他のチームに比べると(業務に関する)免除がわずかで、1週間のうち2セッション分くらい(できる全体練習は)少ないんです。厳しいところはありますが、限られた時間、人材、予算でやることが釜石のよさでもある。ここで結果を出すために、当たり前のことを当たり前にやる組織を作ろうと話し合っています」
33歳だ。選手として残された日数は、それほど多くないのかもしれない。そう、笑いながら言う。
「毎年、最後になってもいいと考えてやっています。いつが終わりになるかわからないので、観にきておいた方がいいかな、と思いますよ!」
将来は指導者になりたい。ダイナボアーズ時代からしていた母校の法大でのスポットコーチを、今年もシーウェイブスのプレシーズン前に務めた。平日は早朝に目を覚まし、家族と暮らす相模原の家から東京都町田市内のグラウンドまで車を走らせた。
「何ができたのかと言うと、ちょっとした手助けしかできていないです。年間を通してフルタイムで見ているわけではないので、ディフェンスのシステムを変えることなどはできない。ただ、あるシステムのなかでどんなスキルを使った方がいいかは教えられる。あとは一緒に練習も」
いずれは、法大を束ねて勝たせる立場に就きたい。
「もちろん段階というものがある。学生の大事な4年間を引き受けるにあたっては、コーチング経験がないままいきなり…というのは、ない、と思っている。でも、いずれ、やりたいです」
自身が入学する1シーズン前はSHの日和佐篤(現・コベルコ神戸スティーラーズ)、SOの文字隆也(現・トヨタヴェルブリッツ採用)を軸に全国4強入り。その2人のラストイヤーから法大にいた武者は、古豪復活へ思いを募らせる。
「やっぱ、母校が弱いって、嫌じゃないですか。僕がいた時も決して強かったわけではないですけど、その片鱗が見られた頃にいたので『強かった法政って、こういう感じだな』をある程度はわかっているつもり。厳しいことを言える間柄になる、その空気感を作っていかなきゃいけない」
まずは現役生活を全うする。12月10日の今季開幕節は、ホスト会場の岩手・釜石鵜住居復興スタジアムで迎える。豊田自動織機シャトルズとの一戦で、インパクト抜群のタックルを繰り出したい。