楕円球を通したひとつの友情が九州は福岡の地にある。
九州産大は昔、大学選手権にも出た。今は九州学生リーグのC(三部)に沈む。その凋落からすくい上げようとしているのは、かって年1回の定期戦を戦った京都産大のOBである。
そのOB、石蔵義浩は力を込める。
「英語の短縮形は同じKSUです。京都にはなかなか帰れんけど、その恩返しをここでさせてもらっているつもりです」
立てた黒い髪、細い目は光りを放つ。
石蔵は39歳。筑紫丘から京都産大に入った。172センチと大きくない体から放つ激しいタックルなどで、1年からCTBのレギュラーにおさまった。今、母なるチームは大学選手権4強9回と一大勢力になっている。
定期戦を組んでいた九州産大の落魄ぶりを知ったのは今年の春だった。石蔵は仕事の会合に出席する。家業である石蔵商店 建材事業部の代表取締役としてだった。そこに九州産大OBでもある伊地知和義も来ていた。
伊地知は石蔵よりひとつ上の40歳。福岡舞鶴から九州産大に進み、WTBとして4年時には主将だった。現在はスポーツフィールドの副社長。この会社は体育会学生の就職応援のサイト『スポナビ』を運営している。
ラグビーつながりで伊地知は話した。
「試合の前日、グラウンドに行ったら、練習に来た部員はわずか4人でした」
九州産大は伊地知が3年の時にB(二部)に落ちた。それから20年近くを経ている。
石蔵は定期戦のために大阪からフェリーを使って門司に渡ったこともあった。そんな思い出のあるチームの危急存亡において、九州男児らしく、その義侠心は燃え上がった。
仕事の間を縫って、石蔵がグラウンドに立つようになったのは今年5月のことである。選手は19人と少ないため、試合形式の練習などは一緒にやる。ボールに寄せる速さなどは昔取った杵柄、である。
「最初は練習を無断欠席する学生もいました。理由があって休むのは仕方がないけど、連絡だけはしような、って伝えました」
監督の星野剛(つよし)は大学職員であるが、練習のある夕刻は業務と重なっている。
九州産大と京都産大の定期戦が始まったのは、1978年(昭和53)だった。当初、京都産大は学生寮に泊まり込み、この福岡で春合宿を行うのが恒例だった。力の均衡が保てず、最後になったのは12年前。この2011年、九州産大の教授でラグビー部の監督や部長をつとめた野口副武(そえむ)が退官している。
九州産大の創部は開学と同じ1960年。日体大出身でフロントローだった野口は、しばらくして体育教員として赴任している。
「6、7年は経っていたと思います」
野口は天理大の監督だった藤井主計(かずえ)を知っていた。その藤井の教え子が京都産大の監督だった大西健である。その縁や近い開学時期などを理由に定期戦が始まった。
九州産大の大学選手権出場は2回。最初は1972年度の9回大会だった。2回目は29回大会である。ともに初戦で明大に0−113、8−112と大敗した。それでも、それらの出場は九州王者だったことを意味している。大学選手権はまだ8校制の時代だった。
長く京都産大の監督だった大西は73歳。野口より5学年下になる。今も相談役としてチームに添う。
「選手権に出たのは向こうが先やからね」
京都産大の初出場は19回大会。初戦で早大に16−45で敗れた。九州産大とは10年の開きがある。大西はそこに敬意を表する。大学選手権は今年、節目の60回目を迎える。
低迷した理由に関して、野口は多くを語らない。
「わたしの不徳の致すところです」
九州男児らしく責任を背負う。当時から、リーグを代表する福岡工大や福岡大に比べ、大学側の支援は手厚くはなかった。今は競技推薦枠や奨学金もなくなった。
その流れの中でも選手は19人が集まっている。最低の15人を切ってはいない。主将は髙山修平。4年生SHは入部理由を話す。
「普通の大学生活を送っても中途ハンパで、思い出が残らないと思いました」
競技は県立校の光陵に入って始めた。
今、週2日は自由参加のウエイトに定められている。アルバイトを入れてもいい。
「ひとり暮らしで、部費や遠征費を稼がんといかん人がいます」
そんな環境でも楕円球を追ってくれる学生がこのチームにはいる。
髙山は母校の70年以上の歴史を思い遣る。
「強い時期は遠いところにあり、実感はわきません。でも、そんな時代があったことを踏まえ、やるからには上を目指したいです」
就職は食品メーカーから内定が出ている。
関係者の様々な思いが交差をする中、九州産大は今秋、リーグ戦を4勝1敗で終え、優勝する。Bリーグとの入替戦は宮崎大と戦うことに決まった。11月19日、福岡大グラウンドで午後3時にキックオフされる。
九州産大の1年生7人の中には、偶然ではあるが、長崎北陽台、大津緑洋、鹿児島工など高校ラグビーの名門校出身者たちが名を連ねている。新コーチも含め、追い風は吹き始めている。
石蔵は社業において、20人ほどの社員に話す。
「日本一になろう」
何をもって、日本一とするかは本人も現在、模索中である。ただ、細部を詰めると息苦しくなる。アバウトでいい。
九州産大における日本一への道は、果てしなく遠く、今は非現実的ではある。ただ、漆黒のジャージーをもう一度輝かせる時期に来ていることは間違いない。