レッドハリケーンズ大阪の高野一成(たかの・かずなり)は目標を口にした。
「ディビジョン1への昇格です」
現場のトップ、GMである。
ファンから「レッハリ」と短く呼ばれるチームは、リーグワンの一部に上がることが目標だ。今年4月、1季でディビジョン2(二部)に上がった。2か月後には挑戦のための新しいシーズンが迫っている。
高野は来年2月で51歳になる。就任は昨年7月。リーグワン2季目を迎える。
浅黒い肌、目じりは下がる。いつも明るく、にこやかだ。これまで、営業畑を中心に働いてきたことが頷ける。
FWとBKをつなげるSH出身らしく、よく話し、よく聞く。人生半世紀に達したが、170センチほどの体は現役時代と変わらぬ細さ。普段の節制が見て取れる。
「チームの再編がなかったら、まだ新潟で働いていたと思います」
リーグワンのタイトルパートナーはNTTである。その傘下のドコモとコミュニケーションズの2チームは昨年、再編された。高野はドコモの新潟支社にいた。危急存亡の時に、故郷の大阪に呼び戻された。
ドコモを母体とするレッドハリケーンズ大阪は社員中心のチームとなり、リーグ最下部のディビジョン3(三部)からスタートした。コミュニケーションズはプロが軸となる浦安D−Rocksになった。チーム間では選手の移籍が行われた。高野は説明を加える。
「ざっくり言えば、ウチはドコモの中の部局のひとつ。浦安は運営会社を立ち上げました。ウチはドコモ、浦安はNTTのそれぞれシンボルチームという認識です」
部局のひとつということは、社業が中央に据えられる。それをこなした上でのラグビーだ。毎日はハード。その代わり、選手としてチームの構想外となっても、60歳定年までの働き場や賃金は保証される。
選手たちは今、基本的に午前中に練習して、午後から社業に入る。リモートワークを作る企業のため、オフィスに出かけずともよい。大阪・南港にあるグラウンドの横には選手専用食堂が作られ、昼と夜の食事は無料で提供される。支援は手厚い。高野が現役の30年ほど前なら、プロの形態である。
選手にとって共通業務のひとつは、地元の大阪市における区民アンバサダーである。各区長に陳情をして、現在、24区中14区に受け入れられた。
高野は話す。
「今は企画も選手たちが考えています」
イベントに参加して、その設営や撤収も手伝う。そこでラグビー教室を開いたり、老人ホームや福祉施設を慰問したりもする。企画力を磨けば、それは社業でも生きる。
区民アンバサダーは地元でのチームの認知度を高める狙いもある。
「試合に足を運んでもらいたいですね」
親しみが持てれば、応援してもらえる。今年7月、チーム名からNTTドコモを外したのも、より大阪のチームということを意識してもらうためである。
その認知度を高めることはスポンサー獲得に直結する。トップリーグからリーグワンに変わったことを受け、興行権が日本ラグビー協会から各チームに移った。
それに伴い、チーム強化にプラスして経済も考えなければならなくなった。高野の顔は引き締まる。
「自分たちで、できるだけ稼いでゆかないといけません」
チームを永続させるためにも、親会社の負担は少なくしてゆきたい。高野もスポンサー獲得の陣頭に立つ。その甲斐あって、その数は前年から3倍に増えたという。
高野の大学新卒としてのNTTへの入社、それに連なる入部は1995年だった。当時のチーム名はNTT関西。リーグワンの前身のひとつである関西社会人Aリーグに所属し、神戸製鋼(現・神戸S)と戦ったりしている。このチームは1964年(昭和39)、電電近畿として創部された。
NTT関西を選んだ理由はある。
「生まれ育った関西に残りたい気持ちがありました」
2002年、このチームはNTTドコモ関西に合流する。レッドハリケーンズ大阪の前身である。創部は1993年。当初は同好会的な立ち位置であったが、高野らが移った頃から強化を始めた。
トップリーグでの戦いは2011年度が最初。同年度、高野はヘッドコーチとなり、チームを2季指導した。成績は14チーム中、1年目は12位、2年目は13位。ヘッドコーチにつくまで、選手兼任も含め、コーチを4季、経験していた。現役引退は2007年度である。高野は指導現場を知るGMである。
高野が転出したあと、チームがトップリーグで戦えなかったのは、2016と2018年度の2季。最高位は2021年度の同率5位である。
高野はヘッドコーチを退任して社業に専念する。主に法人営業をやった。2018年からは東京に行き、新潟へ移る。単身赴任だった。
「新潟では人生初めて雪かきをしました」
高野は置かれた場所で人生を楽しむ。新潟に2年いて、大阪に呼び戻された。
(Vol.2に続く)