*ラグビーマガジンの人気コーナー『解体心書』にかつて掲載された、ワールドカップ2023日本代表メンバーのインタビューを抜粋して再録。(掲載内容はすべて当時のまま)
山中亮平[神戸製鋼コベルコスティーラーズ] *2020年9月号掲載
昨年のワールドカップで日本中を沸かせた15番、実は本邦初登場である。東海大仰星で全国優勝、早大1、2年時に大学選手権優勝と、十代の経歴は華やかだ。それでも、大願成就したのは30歳を過ぎてからのこと。早熟だったラグビーマンが大器晩成するまで。(文:森本優子、写真:髙塩隆)
2019年の「瞬間最高視聴率男」である。昨年のW杯対スコットランド戦。この人がボールをタッチに蹴り出して試合を終わらせた瞬間が、年間の地上波最高視聴率53.7%をたたき出した。
あの熱狂から9か月。日本のラグビー史に確かな足跡を刻んだ男はいま、神戸のグラウンドで毎日、黙々とトレーニングに汗を流している。
次のシーズンの日程が発表されたわけではない。チームとしての練習開始時期も未定だ。それでも「プロでやっている以上、しっかりコンディショニングを整えて、常にいい準備をしないと」。いつ練習がスタートしてもいいよう、身体を整えている。
その矜持こそが、あの歓喜につながった。
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山中亮平。ラグビーを長く見ている人なら、十数年も前からおなじみの名前だ。本人は幼少時から水泳の英才教育を受け、ジュニアオリンピックにも出場するなど、将来を嘱望されていた。
「選手クラスに入っていたので火、木は朝5時半から練習。7時半に終わっていったん家に帰って朝ごはんを食べて登校。授業が終わったら、またスイミングスクールに行って、夜7時まで練習の毎日でした。遊びたかったけど遊べなくて、中学入ってその反動が出た」
中1で水泳をやめ、サッカー部に入部する。だが気になったのは、隣で練習していた楕円のボールだった。
「水泳がしんどかったので、楽しくやりたいというのが一番でした。サッカー自体は大好きですけど、監督とうまくいかなかった。で、横で練習していたラグビーがすごく楽しそうだった。和気あいあいとやっている中にも真剣さがあった。顧問の先生にも誘われたのでやってみたら、すべてが新鮮ですごく楽しかった」
真住中2年で正式にラグビー部に入部。すぐに頭角を現した。山中の年代は大阪市でも大阪府でも準優勝。高校からの誘いもあった。
「日本一なんて最初は全然頭になかった。誘いはもらっていましたが、そんなに強くないところで楽しくやるか、ちょうどスラムダンクにもはまってて、バスケもやりたいと思ったり。選択肢は3つでした」
東海大仰星・土井崇司監督が直々に「絶対日本代表になれる」と誘ったことが決め手になって仰星に入学。いきなり度肝を抜かれた。
「チームはけっこう理論系だった。“ラグビーってこんなに難しいんや”と。それが第一印象でした。SOなので、ゲームメークしなきゃいけない。1年のときは覚えることが多くて、めっちゃ大変でした」
高3時の2006年度、第86回高校大会で優勝する。前川鐘平、木津武士(現日野)、安井龍太(現キヤノン)ら、のちに社会人でも同僚となる逸材が揃っていた。
大学も「強いチームでやりたい」と早くから目標を定め、早大に入学。すぐにレギュラーに抜擢され、大学1、2年時は大学選手権で優勝。いっときBチームに落ちたこともあったが、ほぼ順調。’10年、大学4年の春にはジョン・カーワンHC時代の日本代表に呼ばれ、アラビアンガルフ代表戦で初キャップを獲得した。
だが翌年の春、髭を伸ばそうと購入した医薬品にドーピングの禁止薬物が含まれており、2年間の選手資格停止処分が下された。資格停止中は練習はおろか、クラブハウスの敷地に足を踏み入れることも禁じられた。抜き打ち検査にも対応しなくてはならない。試練の日々だった。
加入予定だった神戸製鋼も、当初はプロ契約。それを、当時の平尾誠二GM兼総監督のはからいで、正社員に。ラグビーから離れている間、一般社員として勤務した。
「あの2年間で、全部見直せた。それまで順調に上がってきたところから、一気に落ちた。離れる人もいれば、支えてくれる人もいた。社員として働き始めたときも、時期的に研修が受けられなかったから、最初は電話の出方すらわからなかった。“ラグビーなかったら何もできへんなあ”と。人として成長させてもらえました」
平尾GM兼総監督も、何くれとなく気をかけてくれた。
「会社に来られたときは食事に連れて行ってもらいました。“ラグビーちゃんとやってるか、頑張れよ”くらいの他愛ない話でしたけど、気もまぎれたし、目を配っていてくれるのが嬉しかった」
選手として復帰したのは’13年のこと。1年目は平尾誠二GM兼総監督、苑田右二HCの体制。翌年からはほぼ毎シーズン、体制が変わった。チームが方向性を模索していた時代だ。その中で「大きく変わった」と振り返るのは2年目、南アフリカ出身のギャリー・ゴールドHCの時だ。
「それまでSOしかできなかったのが、CTBとして出ることが多くなって、12番という選択肢ができた。戦術も僕の得意とするキックを使うラグビーでした」
だがギャリーは1年で退任、その後、同じ南アのアリスター・クッツェーHCが継ぎ、’16年にはジム・マッケイHCが就任。今度はオーストラリアスタイルのラグビーに。
「あの頃は、僕の役割が多かった。試合中、“あれもしな、これもしな”という感じでいっぱいいっぱい。選手でいろいろなことを決めていたので、結構きつかったです」
日本代表ではエディー・ジョーンズ氏が指揮を執っていた。メンバーには呼ばれたり呼ばれなかったり。’15年大会の最終メンバーに入ることはできなかった。それでも「W杯に出たかった。とりあえず日本大会までは頑張ろうと」。
メンバーにケガ人が出て呼ばれる追加招集も必ず応じていた。
「呼んでもらえるのは光栄なことなので、ずっと参加していました。でも、ただ練習に参加するだけのときもあったし、呼ばれてケガしたら、“帰って”と。メンタル的にはきつかった」
ジェイミー・ジョセフHC体制になっても、当初は声がかからず。サンウルブズも’16、’17年と呼ばれたが、ジョセフ氏が率いた翌年には声はかからなかった。
「W杯までの道のりで一番しんどかったのは、’18年の前半ですかね。ジャパンもサンウルブズも何も呼ばれなかった。春に家族で話してて、“もうW杯は無理かも。ここで呼ばれてないときつい”と話をしていた」
’18年春、世界のラグビーの知将であるウェイン・スミス氏が神戸製鋼の総監督に就任。山中は夏合宿からFBに固定される。
「FBになってから楽になりました。やることが明確になったし、カーターがゲームメークしてくれる。僕は自分の役割をやりきるだけで、プレーに対する迷いがなくなった。みんなも成長してコミュニケーションがとれるようになりました」
秋には日本代表に追加招集され、NZ戦に出場。トップリーグでは、圧倒的な強さを見せつけ、18季ぶりに日本ラグビーの覇者となる。山中も15番を背負い、全試合に出場。その存在をアピールした。
年が明けて’19年。W杯を数か月後に控えたとき、サンウルブズから声がかかった。
「ブラウニー(トニー・ブラウン)が“サンウルブズで試合しよう”と言ってくれた。毎試合毎試合がセレクションだと思って、必死でした。(ジャパンに選ばれたのは)ブラウニーのおかげかもしれない」
サンウルブズでは中盤戦の7試合に出場。FBとして安定したキャッチング、キック、フィールドプレーを見せ、存在感をアピール。まさに「ここしかない」というチャンスを活かしきった。
「夏合宿からFBに替わって、秋の追加招集に呼ばれて…。それがこんなことになるとは。不思議ですよね。エディーのときも呼んでくれたのがいいきっかけになった。ウェイン(スミス)が言うのは基本的なこと。ずっと足りないと思っていたところを、底上げしてくれた」
そして日本開催のW杯で大輪の花を咲かせた。高校時代からあふれる才能をうたわれた選手の本当の輝きは、どんな状況でも最後まであきらめない芯の強さにあった。
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W杯後は歩いていても声をかけられるように。超高級ブランド店に買い物に行った際には、お祝いにシャンパンのボトルをプレゼントされ、みんなで祝ってもらった。
「もったいなくて、まだ家に飾ってあります」
大きな目標を達成したいま、家でゆっくり過ごしながら、少しずつ次のターゲットを定めている。
「W杯に出たいというでっかい目標が達成されたんで、いまは近いところを攻めてます。トップリーグでも優勝を目指してますし、次のジャパンもしっかり呼ばれるよう頑張りたい。それを積み重ねていけば、またたどり着くだろうと」
現在32歳。ジャージーを脱いだ後のことも視野に入る年齢になった。
「なにかしらラグビーには携わりたい。それをこれから考えていく段階です。コーチは他にたくさん、いい人がいるので、違う形で選手をサポートしていきたい。悩んでいる選手はいっぱいいると思う。僕はいろんな経験をしているので、そういう選手にきっかけを作ってあげられたら」
どんな時でも挫けなかった体験は、本人にしかないアドバンテージだ。いま悩んでいる選手には。
「与えられた場所で頑張るしかない。僕もポジションが替わったり、追加招集で呼ばれましたけど、そこでしっかり頑張った。そこでやりきってもないのに、なんでメンバーに選ばれないんだ、と思うのではなく、納得いくまでやりきって頑張ってほしい」
花園で頂点に立った当時、「山中のチーム」と言われていた。
「そうでしたね。あの頃は“俺が勝たせる”くらいの気持ちでてたけど、いま考えれば、みんなが僕のプレーに合わせてくれていた。僕が周りを活かしていたというより、活かされていた。いまになってそれを思います」
いろんな経験を重ねて、そのときは分からなかったことが見えるようになった。ラグビーを通じて己を磨いた生き方は、これから後に続くたくさんの選手を勇気づけるはずだ。
「まだまだ(最高視聴率)狙いにいきますよ(笑)」
File
●名前/山中亮平
●生年月日/1988年6月22日・32歳
●身長・体重/188㎝/100㎏
●学歴/真住中→東海大仰星高→早大→神戸製鋼(8年目)
●代表歴/日本代表、U20日本代表、高校日本代表
●家族構成/妻、長男(小学2年)、長女(5歳)、次男(3歳)
Rugby
●ラグビーを始めた学年/中2
●ラグビーを始めた頃の憧れの選手/カーロス・スペンサー
●ポジションの変遷/SO→CTB→FB
●一番印象に残っているゲーム/2018トップリーグ決勝・対サントリー。神製鋼のラグビーができて最高の試合だった
●尊敬する指導者/ウェイン・スミス
●影響を受けた選手/ダン・カーター
●もっとも敵にしたくない相手/ダン・カーター
●もっとも忘れられない敗戦/大学4年、大学選手権決勝・対帝京大。12-17で敗れた
●気に入った遠征地/オーストラリア
●好きなラグビー場/秩父宮ラグビー場
●好きな海外チーム/NZ
●これからのラグビーのゴールは?/考え中
自分のこと
●好きな食べ物/焼肉
●苦手な食べ物/トマト。特にプチトマト。「ケチャップやサンドイッチに入っているのはいけますが、生の食感が苦手。子供に“パパも食べて”と言われるけど、無理」
●好きな本/「村上T」(村上春樹)
●好きなタレント/長瀬智也。「男っぽい感じが好き」
●よく見るサイト/服関係。「ネットショッピングばっかしてます」
●好きな映画/君の名は。「3回観ました」
●好きな俳優/窪塚洋介
●好きな音楽/HIP HOP
●趣味/サボテンなどの多肉植物を育てること。「前から興味があって、ステイホーム中にはまりました。葉っぱとか変わってくると可愛い」
●ニックネーム/ヤマちゃん、ナックス、ヤマナックス
●尊敬するスポーツ選手/イチロー。「イチロー先生も全部観ました」
●試合前に必ずやること/試合1時間から大体同じ行動をとる
●ラグビーをやっていなかったら/考えられない
●いちばん落ち着ける場所/神社。「静かなところが好き」。W杯前も堀江、石原と品川神社に行った。「昇り龍があって運気が上がると聞いたので。いつもしっかりお参りします」
●実家に帰省したとき必ず食べるもの/おかんのオムライス。「バリでかいのがいい」
●ジンクス/特になし
●神戸お勧めスポット/三宮。喧噪の中に生田神社があるのも好き
●これがなければ生きていけない!/iPhone。「絶対そうでしょ」
My Favorite
●W杯終了後、日本協会の名誉総裁を務めておられる彬子女王殿下より賜った葉書とお守り。「宝物です」。ジェイミー・ジョセフHCと大学時代の友人・吉谷吾郎さんからもらったアクセサリー(写真2枚目)