ラグビーリパブリック

バックアップメンバーからW杯初戦先発へ。日本代表・下川甲嗣が積んだ「徳」

2023.09.25

初出場のワールドカップ初戦で7番をつけ奮闘した下川甲嗣(撮影:松本かおり)


 赤と白のジャージィに、白のスパイクを合わせる。ワールドカップ・フランス大会という大舞台へも、ラグビー日本代表の下川甲嗣はいつもの姿で臨んだ。

 5歳でラグビーを始めてから、常に黒か白の一足を選んでいた。特に、白が好きだった。周りが好む青、紫、黄色といった蛍光色には、見向きもしなかった。

「特に深い意味はないです。…あまり、目立ちたくないなって」

 身長188センチ、体重105キロの24歳。6月中旬に始動した今季の日本代表では、正代表に準ずる代表候補の扱いだった。

 しかし8月5日、国内5連戦最後のフィジー代表戦でベンチ入りできた。

 東京・秩父宮ラグビー場でのこの一戦では、退場者の影響で前半途中からプレーした。攻守で躍動し、ワールドカップのバックアップメンバーに名を連ねるに至った。まもなく大会登録選手のけがを受け、昇格した。

 いまの日本代表は、土日にある試合のメンバーを週の前半に決める。その時点で控えに回った選手は、練習で相手の動きを再現して主力組に圧をかける。

 件のフィジー代表戦の2日前まで、下川はその立場に甘んじていた。

 その間の下川は、相手はもちろん日本代表側のラインアウトの動きまで完全に理解していた。いつでもチャンスをつかめるよう、準備を怠らなかったのだ。

「そんなに簡単にメンバーに入れるとは思っていなかったので、本当に地道にやれることをやろうというマインドでいました」

 本大会では、ここまで1勝1敗のチームにあって全2試合に出場している。

 特に9月10日は、チリ代表との初戦に先発。50分間の出番で12本のタックルを放った。
 
 刺さっては起き上がる。また刺さる。

 大舞台で発揮したその持ち味は、草ヶ江ヤングラガーズを経て入った修猷館高にあるという。

「(修猷館高は)小さいチームだったので、ひとりで止められないところはふたりでも3人でもかける…。その後、すぐに起き上がって、セットして、繰り返し、繰り返し…(タックルする)。いまでも、仕事量で勝負したいという思いがありますが、それは高校時代からつながっているのかなと」

 地元の福岡県では、東福岡高が全国大会の常連として君臨する。修猷館高は県下有数の進学校で、推薦入試でも中学の通信簿でいうオール4以上の評定が求められる。

 7学年上の桂嗣さんに倣う形でこの学校へ入ったことが、下川のラグビー人生の転機になったのでは。そう指摘するのは父の航司さんだ。

 次男の甲嗣はおとなしく、争いごとを好まなかった。プレー中も、技巧を活かして相手をかわすシーンが目立った。ラグビースクール時代には、合宿先からコーチが「甲嗣が家に帰りたがっています」と連絡をよこしてくれることもあった。

 それが高校生になると、取り組む姿勢が変わった。早めに試合に出られるようになったこともあり、「自分が何をしなきゃいけないか、チームのなかでの役割が何かを自覚」していたような。少なくとも、父にはそう映った。

 本人が話す通り、懸命に身体を張るいまのスタイルも修猷館高で確立された。

 ポジションは、もともとプレーしていたCTBから、現在の位置に近いNO8へ変わっていた。

 何よりこの時期、下川は急激に背を伸ばしていた。

 中学時代から、母の千佳子さんがたくさんの食事を摂らせるようになっていたのだと航司さんは証言する。

 折しも、長男の桂嗣さんの在籍していた慶大が、王者だった帝京大に追いつけ追い越せと食事とトレーニングに注力していた。その様子を伝え聞いた下川家は、身体が資本だと再確認していた。

 航司さんが取材に応じたのは昨年10月。家族が懇意にする、福岡県内の寿司店でのことだ。

 ちょうどその頃、次男は初めて呼ばれた日本代表合宿で持ち前の堅実さと聡明さをアピール。代表デビューに迫っていた。

 着実にステップアップする次男の様子に触れ、航司さんは千佳子さんと「甲嗣は、前世でよほど徳を積んだのだろう」と言い合っていたという。

 それから約1年。日本代表入りを諦めずにフォア・ザ・チームに徹するという「徳」を積んだことで、下川甲嗣はワールドカップ出場を果たした。

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