光井勇人(みつい・はやと)には葛藤がある。相反する感情が渦巻いている。
めしの種にならないラグビーを続けるべきか…。社業に専念するべきか…。これは、社員選手の誰もが通る道でもある。
光井はシャープなモデル系の顔をゆがめる。
「年々、ラグビーから離れていきたい気持ちが強まっている部分はあります」
今年6月に31歳になった。同月、第一子が生まれた。家族への責任が増してゆく。
自分を包む環境でも大きな変化があった。昨年7月、浦安D-Rocksからレッドハリケーンズ大阪への移籍が決まった。以前からNTTを母体にするこの2チームの再編問題が持ち上がっていた。
コミュニケーションズから生まれた浦安D-Rocksはプロ、ドコモがルーツのレッドハリケーンズ大阪は社員が軸になった。奈良出身の光井は関東から関西へ生活基盤を戻した。
ネガティブな気持ちになるのは、ケガが増えたこともある。俊足と早いさばきで勝負するSHも30代に入った。
「今まで、筋肉系のケガが多かった。太ももの肉離れなんかですね」
先月もヒザを痛めた。トップリーグからリーグワンに衣替えをした直近の2シーズンにおいて、公式戦出場はない。
その専門職のSHのポジションも飽和状態だ。試合出場はひとり、なのにWTB兼任の鶴田諒を含めて6人もいる。光井は話す。
「プロは肩をたたかれることはありますが、社員は基本的にありません」
チーム編成優先ではなく、個人裁量に任される部分も密集度を高める。
ラグビーの満足感は低いが、仕事では昨年2月、国家資格の「キャリアコンサルタント」を取得した。職業選択や能力開発に関する相談を受け、助言を行う専門職である。
その資格を尊重してもらえ、関西支社では企画部門に籍を置いている。
「新入社員の受け入れ対応が中心ですね。システムの設定とか、教育なんかです」
会社は新卒入社したコミュニケーションズのまま。ドコモに転籍はしていない。
ありがたいことはほかにもある。チームが本拠地・大阪の振興のために定める「区民アンバサダー」も会社は業務として認めてくれている。光井は淀川区の担当である。夏の風物詩であり、先月5日にあった「なにわ淀川花火大会」のあと片づけや掃除を担った。
会社には感謝はある。ただ、心の片隅に消えない思いもある。
「試合に出られない不満を、資格を取るということで、消化しているのではないか…」
光井の入社と入部は8年前の4月。当時のチーム名は「NTTコミュニケーションズ シャイニングアークス」だった。
近大からラグビーで引っ張ってもらった。
「内山さんが熱心に誘ってくれました」
内山浩文は当時のチーム総括。現在は浦安D-RocksのGMである。光井は1年目の2015年度、10試合中7試合に出場した。
近大を選んだのは、1学年上に天理の先輩が4人いたこともあった。2年時には当時のヘッドコーチだった神本健司のすすめもあって、SOやWTBからSHに転向。その脚を生かす。神本は現在、監督をつとめている。
4年時には主将についた。この2014年の関西リーグは8チーム中7位。入替戦では龍谷大を61−15と降し、残留した。当時、メンバーとそれ以外をひとつにする苦しさを味わう。
「試合に出ていない4年生はミーティングでしゃべらんといてくれ」
その傲慢さも反省として心に刻まれている。
天理入学は純白のジャージーに憧れたからだ。ただ3年間、花園出場はない。
「毎年、監督が変わりました」
指導に一貫性はなく、御所実に敗れる。
敗戦の3年間で得たものがある。
「忍耐力。毎日ランパスがあって、みんなで『おわラン』と言っていました」
終わらない、とグラウンドの縦の往復の全力ランニングとをかけあわせていた。
中学も天理。小学校6年間は広陵ラグビースクールにいた。小1の担任がタグラグビーを教えており、その紹介だった。
ラグビーを始めて、この2023年で四半世紀を超える。先を見据えてしまいがちな中、同期はW杯に初出場する。
SOの小倉順平。日本代表キャップは4。フランス大会は9月8日に開幕する。
「頑張っているな、って思います」
シャイニングアークスではHB団を組み、試合中にゲーム運びについてケンカしたことも懐かしい。小倉は今、横浜キヤノンイーグルスに籍を置いている。
色々な記憶が去来して、身もだえもする中、光井は言った。
「最後にひと花咲かせたい。家族も一緒に大阪に来てくれました」
チームの本格的始動は9月4日。ディビジョン2(二部)に昇格したリーグワンの開幕は3か月後に定まっている。
葛藤は、振り返ればよき思い出。ラグビーをあがれば、それはなくなる。
「もがいていますが、総じて楽しい」
もがくことはまた、生きていることの証明でもある。