大盛会だった。500人ほどが集まった。「大西健先生 退官記念祝賀会」である。7月30日、京都市内のホテルであった。コロナのため、開催は2年ほど延期されていた。
大西は京産大を教授として退官する47年の間、またラグビー部の監督として、開学の1965年(昭和40)と時を同じくして創部された若いチームの強化に心血を注いだ。
大学選手権の出場34回。そのうち4強進出7回。関西リーグ優勝は4回。その数字はすべて、2回ずつ積み増された。あとを継いで監督になった廣瀬佳司によってである。
私は73歳になった大西の晴れ姿を至近にしながら、気がつけば、宴会場の高い天井に目を向けていた。
「降りてきてはるかな…」
幡篤志が返す。
「もう一緒に飲んではるでしょう」
私たちはひと時、上野隆に思いをはせた。
上野は朝日新聞の記者だった。最初の京産大取材は強豪化する時期だった。1987年、関西のすべてのチーム目標である同志社を初めて破る。スコアは10−7。後半終了間際、SO沖壮二郎の長いPGで勝ち切った。大西の就任から14年が経っていた。
試合後、記者団はおずおずと横一線になって大西に近づく。中央には上野がいた。当時の大西には修行僧のような人を寄せつけない迫力があった。上野は少し首を傾け、時折眼鏡のつるに手をやりながら、取材の口火を切った。その姿が映像に残っている。
上野は大西と酒を介する仲でもあった。そういう個人的な付き合いがありながら、前には出なかった。慎み深かった。
大西は笑いながら話したことがある。
「上野さんと飲んで、2人とも酔っぱらった。そしたら、上野さんは靴を間違えて履いて帰ったことがあったわ」
どんだけ飲んだんだ。
上野は飾り立てずとも、人の懐にすーっと入っていく魅力があった。そこにスポーツの違いはない。
ボクシングの取材で大阪のグリーンツダを訪れたことがあった。このジムは、赤井英和が世界戦に挑んだあと、井岡弘樹、山口圭司と2人の世界王者を輩出していた。
上野はリングの奥にある小部屋でジム会長の津田博明と差しで話をしていた。ほかの記者は誰も近づけない。ああ、これが本当の取材なんだな、と学ばせてもらった。そうなる関係をいかに早く築くか。
上野は少し人と違った人生を歩む。高校卒業後、陸上自衛隊に入った。あるいは学費をねん出するためだったのかもしれない。隊内での成績はよく、狙撃を任された。
「銃はねえ、ひとつひとつクセがあるんですよ。同じに見えてもね」
どこかで、そんな話を聞かせてもらった。
2年、国防の任についたあと、長崎大に入学する。そして新聞記者になった。そんな、生き方が大西や津田らその世界で名の通った人々に興味を持たれたのだろう。上野の記事は面白く、当番デスクの楽しみのひとつはその原稿を一番に読めることだった。
そんな上野に病がとりついた、という。穏やかな表情を現場で見かけなくなった。復帰したが、その顔には疲労がにじんでいた。
20年前、私はスポーツ紙のラグビーキャップだった。同僚だった幡はイチロー担当として日米を行き来していた。オフには前キャップとして現場を助けてくれていた。幡は現役時代、大体大のFLで主将だった。
その2003年、京産大は40回大学選手権に出場した。12月14日の1回戦で5大会ぶりに勝利する。筑波に33−24。この試合は愛知の瑞穂であった。幡が行ってくれていた。
「大西先生が、試合が終わってから、上野さんの話をしました。上野さんのためにも、勝ててよかった、と」
上野は試合2日前、永遠の旅に出る。悲しみを胸に秘め、大西は戦った。上野は大西より2歳下だった。供養星。幡はそのことを原稿に入れたい、と訴え、デスクは他紙の人間のことながら、OKを出した。
その新聞は上野の社内の机に置かれた。幡は後日、野球現場で西村欣也に会った。朝日を代表する運動記者から、謝辞を伝えられる。その西村も鬼籍に入ったと聞く。
記者仲間だった赤坂英一は上野のことをまとめたホームページを作った。そこからは故人へのあふれんばかりの愛と尊敬が伝わる。赤坂はひとつの仕事を遺した。
退官記念のパーティーの最後に大西はあいさつをした。
「伝統というものは一代でできるものではない。次につなぐ人たちがたくさんいる」
監督は廣瀬に譲り、大西本人は相談役になった。早慶明同と100年を超えるチームに歴史は及ばないが、京産大は京産大のやり方で伝統を作っている。
幡や私は、京産大を含め上野から取材の仕方や原稿の書き方を習った。ラグビー・ライティングの世界においては、少なくともその形が伝統ではないかと思っている。
大西先生、おめでとうございました。上野さん、安らかに。