今里良三が30年以上の関わりを持つ花園近鉄ライナーズの創部は1929年(昭和4)に定められている。実はその2年前、若手社員たちがラグビーに興じていた。大阪・高安の操車場の建設予定地だった。
この1920年代、国内で闘球熱は高まりを見せていた。各大学にもラグビー部が作られた。明治や立教は今年100周年を迎える。
1927年を創部年にしなかったのは、東洋一と喧伝された花園ラグビー場の開場に合わせたからである。このラグビー場は秩父宮のお声掛かりでできあがった。秩父宮は昭和天皇の弟君であり、現天皇の叔父にあたる。
社会人の強豪では、神戸製鋼(現・神戸S)の創部が1928年。仮にこの高安での「楕円球遊び」に創部年を置けば、最長の歴史を有することになる。
近鉄グループホールディングスの始まりは1910年(明治43)。創部の20年ほど前になる。社名は大阪電気軌道。関西の人々には「大軌」(だいき)の名で親しまれた。そのスタートは鉄道事業である。
今では日本有数となった超複合企業体がラグビーを大切にするのは伝統である。高安の野に集まった社員の中に佐伯勇がいた。社長や会長を歴任して、このグループの繁栄の礎(いしずえ)を築いた人物である。
佐伯は42年前に出版された『近鉄ラグビー部50年史』で、巻頭において祝辞を添え、ラグビー部の強化の理由を書く。
<全社員の士気高揚の原動力にするとともに、日本ラグビー界復興の一助にもなれば>
前の世界大戦が終わったのは1945年。佐伯を含めた社員たちは戦後復興にラグビーを重ね合わせていた。最初に全国社会人大会で頂点に立つのはその8年後、1953年である。この大会はリーグワンの前身だ。
この50年史が出るころまで、近鉄は強豪だった。優勝は全国社会人大会8回、日本選手権3回。この日本選手権は1963年に始まった当初は社会人と学生の王者が日本一をかけて争うものだった。最後は社会人と学生の力の差が広がったこともあり、2年前、58回大会を最後に閉幕。その役目を終えた。
今里は社会人1年目で全国社会人大会を制している。その入社と入部は1969年。卒業大学は中央。同期は東洋大出身の原進だった。原はPRとして日本代表キャップ17を得たあと、退社。プロレスラーとなった。リングネームは「阿修羅・原」である。
今里は入社の経緯を語る。
「決めたのは、勝てるから。それに昔から鉄道会社に親しみがありました」
中学から報徳学園に通った。宝塚の自宅から西宮の学校までは阪急電車を使った。
「通学の時、運転席を眺めていました」
報徳学園を選んだのは理由がある。
「高校受験をしなくてよかったですから」
のんびりした環境の中、中学では野球、高校からラグビーを始める。
「中3の時に前田先生の保健の授業がありました。先生は立て板に水のごとく、ラグビーのよさを語られた。体が小さくてもやれる、どんな子でもポジションがある、と」
前田先生とは前田豊彦。1960年に赴任。監督としてラグビー部を強豪化させた。今里は高2から連続で全国大会に出場。これは現在の48回出場の同校の2、3回目にあたる。
今里が高2の43回大会(1964年)は2回戦敗退。盛岡工に5−21。この時はFLだった。高3でSHに転向する。身長は160センチほどと小さかった。44回大会は初戦敗退。黒沢尻工に6−8の記録が残る。
この高3時にダイビングパスを習得する。跳びながらSOに放る。地面には胸からつく。
「ボールを生かすことと、たとえ数十センチでも捕球者に近づく、ということでした」
当時、スクリューパスはまだ海外から伝わっていない。SHはみなこの投法だった。
<掃くように放れ>
理想の言葉を繰り返す練習でものにする。
中大進学は報徳学園の先輩がいたこともあった。当時、8校制だった大学選手権には上級生で連続出場する。現在、17回の出場記録を持つ中大にとって、これは1、2回目。今里は大学でも高校同様に先駆けとなる。
4年時は早大に8−22で敗れた。この準決勝敗退も中大にとっては最高成績。今里はこの最終学年、パスワークのよさから日本代表に選ばれる。1968年だった。
その年の5月、世界を驚かせたニュージーランド遠征に参加する。代表の下に位置するオールブラックス・ジュニアを23−19で破った。
初キャップは翌1969年3月の香港戦。近鉄に入社する直前だった。第1回アジア大会の決勝は24−22と勝利する。最終となる23キャップ目は7年後のイタリア戦。英伊遠征での一戦は3−25だった。
「代表引退は1976年。次は若い人に、ということでした。近鉄ではもう2年、選手をやりました。その間はコーチ兼任でした」
当時はキャップ対象試合そのものが少なく、交替出場のシステムもなかった。今里が今の時代に日本代表なら、SH最高の80ほどのキャップを得ている可能性はあった。