藤井主計(かずえ)はベールに包まれたラグビー指導者だった。30年以上前に現場を離れた。生きていれば79歳になっている。
藤井は天理ラグビーの功労者のひとりである。母校の天理大学にその理論を落とし込み、最初の関西リーグ制覇を果たした。同志社の連勝記録を45で止める。1970年(昭和45)のことだった。
その追悼試合が6月25日、天理親里ラグビー場であった。筑波との定期戦がそれに当てられる。亡くなったのは昨年12月3日。小松節夫は試合までの経緯を話す。
「コロナもあって藤井先生のお葬式は密葬やった。それもあって、OB会とも話をして、部として感謝を込めて何かさせてもらおう、ということになったんよね。コロナも落ち着いたので定期戦に重ねさせてもらいました」
小松は藤井と同じ弟分の天理高校から、同志社に進んだ。指導を受けたことはなかったが、監督継承者として19歳年上だった藤井への尊敬を秘める。
定期戦のキックオフ直前、ラグビー部OB会長の東井(とおい)和則が、遺影を持って、藤井の事績をスタンドの観衆の前で披露する。続いて、黙とうを行った。
この定期戦はともに教育系大学というところから1964年1月8日に始まった。61回目の戦いは漆黒が49−35(前半21−14)で西下(さいか)して来た水色を制する。通算成績は22勝35敗、不明3、中止1。この中止は3年前、コロナの影響だった。
藤井の大学入学はこの定期戦の始まる2年前のことである。ロックやフランカーをこなした。卒業後は保健・体育の教員として大分の高校で1年を過ごす。その後、関西に戻り、大阪の啓光学園に赴任した。
ここで藤井は最初の輝きを発する。チームを1年かからず、全国大会に初出場させた。47回大会は2回戦敗退。新田に11−16。当時は32校制だった。今、校名は常翔啓光に変わっているが、冬の全国優勝は歴代3位の7回。その基礎作りは藤井だった。
その初出場時、背番号7をつけたのは3年生の大西健。今は京産大の相談役である。
「藤井先生は高校で結果を残したから、大学に引っ張られたんやね」
大西も恩師について、ひとりだけ天理に入学した。藤井ラグビーの1期生である。
その練習は徹底した走り込みだった。
「走んのは、よう走ったわ」
菅平の夏合宿では朝4時に起床。横一線に数人が並び、ボールをつなぎ、グラウンドの縦を休憩なしで繰り返し走る。遺影の中の藤井の輪郭は日に焼けた五角形。顎の張りに意志の強さが見て取れる。
普段、そのランパスに費やしたのは3時間。「新幹線」と呼ばれた。当時、その超特急に乗れば大阪から東京までそれくらいかかった。通いの部員は走りにかけた時間を知っていた。グラウンド脇を近鉄電車が走っていたからだ。時刻表は頭に入っている。
大西は5年間の藤井の教えを語る。
「ランニングラグビーやね。走ることによって数的優位を作る、ということ」
3時間ランパスは相手の走力を上回り、試合を有利に進める理屈だった。
その方法論で関西初優勝を引き寄せ、さらに2年おいた1973年から3連覇を達成する。同志社一強時代にくさびを打ち込んだ。
教え子たちは教員として、主に関西に散らばる。京産大を大学選手権4強9回の強豪に仕立て上げた大西はもちろん、記虎敏和は母校の啓光学園で戦後最多となる全国大会4連覇を成し遂げた。御所実を全国準優勝4回とトップに押し上げた竹田寛行もいる。
藤井はただ厳しかっただけではない。教え子を可愛がった。大西の記憶が残る。
「飲みにも連れて行ってもらったよ」
天理から西に3駅行った前栽(せんざい)に酒屋があった。いわゆる「角打ち」でビールなどをごちそうになった。
藤井は事情があって3年、指導を離れる。その初年の1984年、チームは大学選手権で16回目出場にして初の4強入りをする。置き土産だった。初戦で専大に12−7、慶應には0−20で敗れた。当時は8校制だった。
1987年、監督兼部長で現場に戻る。しかし、期間が空き、学生とのかみ合いはよくなかった。大西が率いる京産大や大体大などの台頭もあった。チームに昔日の勢いを取り戻せぬまま、1991年秋、辞任した。Bリーグ(二部)に降格した責任をとった。指導年数はコーチ1年と監督を合わせ計21年だった。
そのあとも体育学部の教授として学内には残った。2009年、65歳で退官する。ラグビー部の監督を引き継いだ小松は、学部職員として藤井に応対することもあった。
「普通に接してくれはったよ」
昔日の功績をかさに着て、威張ることはなかった。
小松は藤井の築き上げたスピード感あふれる展開ラグビーに、FWコーチの岡田明久を指導の主に据えたスクラムを加味する。その押したスクラムが追悼試合でも先制トライの起点になる。前半18分だった。
小松が指揮を任されてからの関西制覇は8回。5連覇を含む。2人を合わせた優勝は12回になった。同志社の42回に続き、2位である。2020年度には学生日本一の称号を手に入れる。57回目の大学選手権決勝は最多優勝16回の早稲田に55−28とした。
その学生日本一への源流は藤井が作ったと言っても過言ではない。そして、そのイズムは大西らの中に今でも生きている。
その存在は追悼試合を通して、若い人たちにも認知された。そのことを泉下にいる藤井は知る由もないが、功績は残る、ということを我々に如実に示してくれている。