「いきなり来るんですよ。介護っていうのは。話には聞いていたけれど」
吉田明は言った。四半世紀前にはラグビー日本代表のCTBだった。
現役引退後は両手に余る数のチームを指導した。3年前には大分の日本文理大で准教授にもなった。今年8月で52歳。その「アキラ」にも、手に入れた准教授の椅子をなげうっての介護の現実がやって来る。
母は86歳、父は1歳上だ。2年前、母が認知症になった。もの忘れがひどくなり、徘徊も起こる。父にとってはいわゆる「老々介護」になる。昨年6月、その父が過労で倒れた。救急車で運ばれた。
吉田は振り返る。
「腰のヘルニアの手術をしたり、すい臓などに影があった。悪性ではなかったけれど」
ガンの診断はまぬかれた。そこに、吉田の兄も脳溢血で倒れた。両親介護の軸だった。
「昨夏、家族会議をしました。妻は仕事をしている。娘と息子も学校がある。自分が帰って看る、という結論に至りました」
日本文理大には感謝と申し訳なさがある。
「本当によくしてくれた。半年ほどかけて、自分の状況を理解してもらいました」
経営経済学部の准教授としての待遇を与えてくれ、九州学生Aリーグ所属のチームにもコーチとして携わらせてもらった。
大分に来たのは4年前。ラグビー部監督の永野裕士が中心に動いてくれた。永野は日大OB。吉田も同じ大学やその付属校で講義を受け持ったり、コーチをしたことがあった。その縁がある。吉田はマネジメントの修士号を持っている。母校・京産大の大学院に通って取得した。中高の保健・体育の教員免許も所持している。
「いずれ、妻を呼び寄せて、大分で暮らすつもりでした」
人生は思い通りにゆかない。この年度末の3月、実家と自宅のある京都に戻る。
両親には育ててくれた恩を感じている。
「高校の時からずっと試合を見に来てくれた。そういうことがなかったら、帰る気持ちにはならなかったかもしれません」
啓光学園(現・常翔啓光)、京産大、神戸製鋼(現・神戸)、そして日本代表を含め20年近く試合会場で応援し続けてくれた。
京都に戻って、実家に通う日々を過ごす。
「一番きついのは下(しも)の世話。それをテキパキとこなす看護師さんはすごい」
自分たちが受けられる支援も勉強する。数日の入院にあたるショートステイ、朝から夕方まで預かってくれるデイサービス、訪問介護の3つを柱に据え、足りない部分に自分や家族を当てはめた。
「そうしたら、やっていけるメドが立った。こんなにあっさり済むとは思わなかった」
ごつごつした顔を吉田はほころばせる。拍子抜けは同時にラッキーを意味する。
介護の段取りの次は生活費の段取りをつけないといけない。今は社会人のリコー・ジャパンのコーチを週一でつとめている。チームはトップウェストのBに所属。リーグワンのディビジョン1から数えれば5部になる。
「教員に戻りたい」
吉田は本心を口にした。
「遠回りしたけど、やっとわかった。人間的成長をさせるサポートのよろこびを」
日本代表キャップ17を持つ自身の経験を交えた理論を落とし込んでも、受け入れる側にその素地がなければ、成立しない。
「靴をそろえる。あいさつをする。遅刻をしない。個人がしっかりしていないといいチームにはなっていかない」
そう痛感したから、教員免許も取得した。神戸製鋼での現役引退は2006年の3月。35になる年だった。翌月から京産大のヘッドコーチを3年、そして監督を2年やった。日大やヤクルトレビンズなどのコーチもした。そのセカンドキャリアの18年で自分なりの教育メソッドを持ち得る。
「今、色んな学校に職務経歴書を送ったりしています」
メドが立った、とはいえ、介護は続く。何かあれば、すぐに京都に帰ってこられる場所なら、言うことはない。
その吉田を貫くラグビーは啓光学園で始められた。3年時に全国大会準優勝。69回大会(1989年度)の決勝は天理に4−14だった。高校日本代表にも選ばれる。京産大では1年からレギュラー。4年時には主将となり、大学選手権では京産大最高の4強入り。30回大会は法大に19−28で敗れた。
神戸製鋼では12年間、プレーした。入社の1994年度は2つの7連覇の最後に貢献する。全国社会人大会(リーグワンの前身)は47回、日本選手権は32回だった。1999、2000年度の復活連覇、そして2003年度のトップリーグ創設時の優勝にも関わった。
日本代表に初選出されたのは京産大時代の1993年。現役時代は180センチ、90キロほどの体を利したタテの強さ、タックルの激しさなどに秀でていた。今年9月、フランスで開催されるワールドカップには2回出場した。1995、1999年である。
その後、18年にわたり、たくさんのラグビーマンを教え導いた。
吉田はすっぱり割り切れる性格だ。
「両親を看ないといけないのは運命かな、と思っています」
その男らしさも含めて、介護をしながら、また教室やグラウンドで教える立場に回れれば、本人にとってこんなうれしいことはない。ラグビー界、そして世間にとってもそれは僥倖(ぎょうこう)と言えるだろう。